世界史,歴史,大学入試,認知心理学

『世界史読本』

◇ローマ帝国

■ローマの建国

ローマ帝国は現在のヨーロッパ・アメリカ文明の原点である。ローマ帝国が無ければ、今のヨーロッパやアメリカの姿は全く別の姿になってい ただろうし、そもそもヨーロッパという地域があったかどうか、そしてアメリカ大陸にあれだけ多くの人が住むようになっていたかどうか もわ からない。それほど現代文明に大きな影響を与えた国なのである。現在でもヨーロッパ人の日常会話の中には「すべての道はローマに通ず」 「賽は投げられた」など、ローマ時代に由来する言い回しがふつうに使われている。

またヨーロッパの高校、特にエリート層の子弟の行く学校ではローマ時代の言葉であるラテン語が、現在でも必修外国語として1000年 前と 同じように教えられ続けている。もはやラテン語を日常的に話す人は誰もいないというのに。こうしたことから、ローマ帝国を知らないでは欧 米文化が理解できないと言っても過言ではないだろう。

ではローマという国の歴史を見ていこう。この章はすこし他の章に比べると長い。これは著者の好みもあるが、後世に与えた影響が大きい とい うことで、他の教科につながる内容(つまり使える知識)が多いためである。

まずローマの建国だが、これがはっきりしない。伝説では前753年にロムルスが建国したとされている。ロムルスは、ホメロスのトロヤ 戦争 史の登場人物の一人アエネイアスの子孫である。アエネイアスはトロイの滅亡後各地を放浪し、最後にイタリアに落ち着いた。そして子孫のロ ムルスの時にローマの中心部のカピトリーノの丘に、自分の名をとった町を作ったのであった。

ローマの町は当初人口も少なく、各地から移民が募集された。このため移民は容易にローマの住民と同じ権利が得られた。そのための資格 も単 純で、税を払うことや敵と戦うこと、つまりローマ市のために以前の市民と同じ負担をすれば、同じ扱いを受けると言うことだった。これは ローマが後に巨大になっても引き継がれた原則で、たとえ敗者であってもローマに従うことを約束しさえすれば、勝者のローマ市民と同じ 権利 が保障されたのである。それは相手が肌の色や顔かたちは違おうが関係なかった。この点でローマは、民族差別や人種差別にあまり縁のない国 家だった。その点こそローマが多民族国家でありながら非常に長期にわたってヨーロッパ~地中海世界に君臨でき、その政治体制や文化が その 後も多くの国に影響を与え続けた理由の一つであった。これには現代の国家でも見習うべき点が多い。

■共和国ローマ


ローマが発展するきっかけとなったのが、前509年の共和政への移行である。ローマは建国時は王政だったが、初期の王はほとんどがラ テン 人だったが、最後の3人はエトルリア人だった。エトルリア人とは、当時イタリア半島の北部に大きな勢力を持っていた先住民族で、かなり豊 かな文明を持っていた。彼らの遺跡を見ればいかにローマが大きな影響を受けていたか分かる。エトルリア人の王がいたと言うことで、当 時の ローマはその支配下にあったと見られている。

最後のエトルリア人の王は、伝説によれば市民に対して傲慢で一方的な政治を行ったために貴族と民衆の圧力によって追放された。この時 中心 になって働いたのがルキウス=ブルトゥスという人物で、後にカエサル暗殺のところで出てくるマルクス=ブルトゥスの祖先とされている。

こうしてローマは、貴族の合議制による政体に変わった。この貴族たちが議決する場が元老院である。ラテン語でSenatus、英語で は Senateセナートという。日本の参議院にあたるアメリカ合衆国の上院の名はこのSenateの名を使っている。

ちなみに、今でもローマでは町のあちこちにS.P.Q.Rの四文字の略号が目につく。たとえば下水道のマンホールのふたや公衆掲示 板、落 書きにまで。これはSenatus Populusque Romanusの略で、「ローマの元老院と民衆より」の意味である。つまり日本なら「大和朝廷より」とか「幕府より」ということか。日本では冗談でしかな いだろうが、さすがルネサンスの国、官公庁も人間くさいのだろうし、ローマ帝国を誇りに思っているので誰も文句を言わないのだろう。

脱線ついでに「ローマ字」の話をするが、古代ローマ人が使っていた文字はすべて大文字のアルファベット、しかも26字ではなく、 ABCDEFGHIKLMNOPQRSTVXの21字だけだった。最初は小文字もなかった。じゃあJUWYZはというと、JはIでその音 を代用していた。これでは区別がしにくいというので、Iの下を少し曲げて区別したのがJの始まりだった。同じようにVは母音ウの発音 をす ることも、子音としてV(ヴ)・Wの発音をすることもあった。それで後にVを少し丸めてUの字、二つ(ダブル)くっつけてダブルユーWと なったのである。たとえば、1月(January)はラテン語ではIanuariusで7月(July)はIuniusだった。また イエ ス(キリスト)はJesusと書いたが、発音はイェススだった。

月名が出てきたのでさらに脱線するが、初代の王ロムルスの頃は暦は春~秋までしか無く、今では信じられないが冬には月名が無かった。 月名 は、最初から順に Martis,Aprilis,Maius,Junius,Quintilis,Sextilis,September,October,November,December だった。5番目の月から10番目の月まではラテン語の数詞 Quint(5),Sext(6),Sept(7),Oct(8),Nove(9),Deca(10)から来ている。これが2代目の王の 時に冬に二つ、新たにIanuariusとFebruariusが加わった。その後かなり後になって、冬から1年を数えるようになっ て Ianuarius=Januaryから月を始めるようになって、結果として5月以降が数詞とずれてしまったのである。昔から英語の月名 について、Septemberはラテン語の7が由来なのに何で9月なのかというと、それはローマの皇帝Augustusが自分と父の Julius Caesarを月名に途中に割り込ませたためにずれたのだ、という俗説があるが、こちらの方が真実である。ただしJulyがカエサル、Augustがアウ グストゥスから来ているのは正しい。

■民主化闘争


さてこうして共和政が始まったが、まもなくその政治体制に危機が訪れた。貴族と民衆がともに戦って王政を倒したのに、その後の市政は 貴族 が独占していた。さらに当時ローマは北方から攻めてきた異民族ガリア人の断続的な攻撃にさらされていた。戦争が続く中、貴族も平民も共に 力を合わせて外敵に対していたが、そのための犠牲も大きかった。平民は、貴族の指揮の下に、重装歩兵として敵と戦っていたが、当時平 民は 武器は自費で購入して整備する必要があったため、戦時には出費がかさんでしまう。それでも商人などは現金が手に入りやすかったからまだま しだったが、農民には現金収入がない。その上ローマが農業国であることを知った敵が、わざと収穫期に押し寄せてくることで農民の被害 が目 立っていた。せっかく育てたその年1年の収穫をダメにされ、生活のためにやむなく借金をして返済に苦しむものが多かったのである。中には 借金が返せないため、自分で自分を奴隷として売って借金を返すしかなかった者も少なくなかったのである。

しかたないと言えばしかたないが、これだけ国防に協力しているのだから、国家も何らかの救済策を考えてほしい、少なくとも配慮ある言 葉だ けでもあれば・・・、という平民(農民)の思いを踏みにじるかのように、貴族たちは無神経な発言をくり返した。まるでどこかの国の厚生労 働省の役人のような話だが、このことが平民の怒りに火をつけた。前494年、外敵との戦争中に平民はすべての戦いから身を引いてロー マ市 の中心にある聖なる山に立てこもった(聖山事件という)。異民族たちはすぐに異変に気づき、激しくローマ市を攻撃した。貴族たちは老人さ えも戦闘にかり出して防戦に努めたが、努力にも限界があった。やむなく貴族たちの代表が平民たちのところに送られ、必死に説得をし た。そ して妥協の末にできあがったのが十二表法と呼ばれる成文法だった。

それまでローマの法は、刑法から民法まですべて元老院議員の決議だけで決まっており、基本的には前例が踏襲されたが、成文化はされて おら ず、記憶に頼る部分が多かった。それに、貴族と平民が対立する部分になるとどうしても貴族に有利な判断が多かった。そこで平民たちは、法 を自分たちにも分かるよう、基準をはっきりさせるために成文法を求めたのである。

この法をよく見れば、当時のローマ社会が非常によく分かる。公権力は小さく、その分私権が強く、特に家庭における家父長の権限は絶大 だっ た。女性の権利も低かった。貴族と平民は、身分は区別されていたが現実の扱いはほとんど平等だった。しかしそれでも両者の間の結婚だけは 禁止されていた。両身分はほとんど平等なのだから、後にこの規定は撤廃されるが、それでも身分をなくそうという風には行かなかったの が ローマだった。ローマでは貴族とは単なる身分ではなかった。いわば支配者集団、エリート集団といったところか。そのためこの後のローマで は、平民の中の有能な人物が貴族集団に入ることはあっても、貴族が平民になることは無かったのである(現実にはあったかもしれない が)。

聖山事件後、貴族は、特に貧しい平民の借金を帳消しにし、借金が原因で奴隷に売られていたものも国家の責任で買い戻して自由民に戻す こと した。さらに護民官という、平民会で二人選ばれる新官職を設けて平民の立場を守るようにした。護民官の体を傷つけることは誰であっても禁 止され、家の門はいつでも平民が訴えに駆け込めるように、夜でも戸が開けられていた。護民官の職務は、常に貴族の代表である二人の執 政官 (コンスル)の行動を監視し、平民に不利な場合には拒否権を発動することもできた。従って、平民と貴族は政治的な権利においてほぼ平等と なったわけである。ただ、非常時には執政官のうち一人が軍事大権(インペリウム)をもつ独裁官になるなど、まだまだ貴族に比べれば平 民の 力は弱かった。何より、平民会が何を決定しても、それが法的に保証されないという弱点を抱えていた。

それでも大きな不満は解消されたから、その後のローマは順調に発展する。初期には大敵だったエトルリア人も前5世紀に入る頃にはその ほと んどを屈服させていた。前4世紀には北方のガリア人(ヨーロッパの先住民ケルト民族の一派)に市街の大部分を占拠されるという事件もあっ たが、ガリア人が領土支配に無関心だったため、結局は退去させることに成功した。ガリア人の再来を防ぐためには、より一層周囲の民族 との 協力は欠かせない。ローマは周囲の諸民族と同盟を結んで、異民族との対立を乗り越えていった。

ローマがこうした同盟者を味方につけたり敗者をなだめるために提供したのが市民権だった。市民権さえ持っていれば、ローマの支配下で は公 平な裁判、生命や財産の安全が期待され、ローマが建設した道路・交通網がもたらす流通・経済すなわち生活の安定と発展が期待できた。その 上信仰や習慣を変える必要はなかった。当時の大国では珍しく、ローマは何かを強制しようとはしなかった。彼らはその発展をじゃまする もの は打ち破り、敗者にも市民権を与えて同化し、それで新たな活力を得て、より一層発展する力につなげていったのである。

この時期からローマは同盟市との間に盛んに国道を建設する。その代表がアッピア街道で、ローマから始まって最終的にはイタリア半島の 先端 まで全長540Kmにもなる街道である(完成はトラヤヌス帝時代)。こうした街道がどんどん延びていき、周囲の都市を支配下に置くにつ れ、ローマの力は増し、結束力も高まった。こうしたローマの爆発的な発展は、紀元後3世紀まで続いていく。そして前3世紀中頃にはイ タリ ア半島のほぼ全域がローマの支配権におかれることになった。

ローマは支配権の及ぶ場所に土地を手に入れると、植民者を募集して新しい植民都市を築かせた。それはギリシア人の集住(シノイキスモ ス) と似ているが、ギリシア人のが出身地とは全く別の国・社会を作ったのに対し、ローマ人のは出身国や周囲の都市と密接につながった都市だっ た。こうした植民が成功すれば、その分だけ需要が生まれ、商業が一層活発化する。それが全体をより発展させることにつながる、という わけ である。ローマはこうして支配領域を広げていったのである。ただしこうした土地は、その所有権のほとんどは貴族のものだった。貴族は平民 に土地を与えることはできたが、どこをどれだけ与えるかは貴族の胸先三寸で決められた。ほとんどは貴族にとって絶対に不利にならない よう に決められた。このため貴族と平民との対立が収まることはなかった。

そこでこうした不満を解決するために、前4世紀中頃護民官のリキニウスとセクスティウスの提案で、貴族が独占していた二人の執政官の うち 一人が平民にも開放されるようになった。さらにこのリキニウス・セクスティウス法では貴族の土地所有について制限される(500ユゲラ= 一般的な学校の60校分、甲子園球場のグランド80個分)ことになった。残る最後の不満、貴族と平民の間の最後の格差であった平民会 の決 議をどう扱うかという点においても、前3世紀初めにホルテンシウス法で元老院と平民会が同等の議決権を持つとされた。こうして元老院と平 民会はほぼ現在の参議院と衆議院のような関係をもつようになり、貴族と平民の関係はほとんど平等となったのである。

ただし、貴族と平民の関係を「平等」といい切るには多少問題もある。当時のローマ社会では、貴族の中でも有力なもの(名家=ノビレス と呼 ばれた)は保護者(パトロヌス、パトロンの語源)として、被護民(クリエンテス、クライアントの語源)と呼ばれる多数の平民の集団を抱え ていた。被護民は、有力者の家から解放された奴隷であったり、有力者が指揮した軍隊内で功績があった者だったりしたが、一度この保護 -被 保護関係ができあがると、被護民一家はよほどのことがないかぎり保護者の一族に忠誠を誓わねばならなかったし、保護者も何としても被護民 を保護しなくてはならなかった。親子関係というか、それ以上の関係だったのである。

最後にローマの軍制について述べておこう。ローマ兵はギリシア同様の重装歩兵であったが、軍の編成に違いがあった。ローマ軍の編成は イタ リア半島統一の過程でさまざまな民族との戦いを経験するうちに改良され、重装歩兵を100人集めた集団(百人隊という)を基本とし、これ を束ねた中隊、中隊を束ねた大隊、そして大隊を束ねた軍団という形に変えていった。この方が戦場においては柔軟に事態に対応しやすく な り、結果として無敵の軍となったのである。これだと、たとえ司令官が一人や二人いなくなろうが、それに変わる人物がすぐに全権を掌握でき るようになっていた。こうした、国家のすべての面における組織の柔軟さこそが、ローマを地中海世界の支配者に押し上げた組織面の最大 の要 因だった。軍事面や社会面でローマより強い国家は他にもあったが、トータルでこれほどの強さを持った国家は、古代においては他になかった のである。

■ローマの地中海制覇


イタリア半島を制覇したことで、ローマはいやでも半島諸国の内政・外交に関わる必要ができてきた。

このころ地中海世界全体を眺めると、東方ではヘレニズム諸国が相変わらず覇権を巡って争っていたが、イタリアから西は、ギリシア人植 民地 がちらほらとある以外は、ほとんどが北アフリカにあるカルタゴ市の勢力範囲だった。フェニキア人植民地から発展したこの都市国家は当時 「地中海の女王」と呼ばれ、かつての本国に代わって地中海最大の商業国家として君臨していた。ローマ人からすれば、自分たちとはまる で違 う生き方の国であり、自分たちが全く勝手が分からない海の国である。両者の間にはすれ違いさえ起こらないはずだった。それが偶然から戦争 になってしまったのが三度にわたるポエニ戦争だった。ちなみにポエニとは、フェニキアのローマ読みである(ギリシア語ではポエニキ ア)。

第一次ポエニ戦争は、ローマの同盟都市とシチリア島のカルタゴの属国との戦争が原因だった。先にも書いたようにローマはまったくカル タゴ と事を構えるつもりはなかったのだが、何せ片方が同盟者だけに、だまっていられなかった。勝てる見込みは全くなかったが、面子だけで戦争 に突入したのである。陸戦ではローマ軍が優勢に戦争を進めたが、何せ相手は地中海最大の海軍国、勝利するには海戦で勝たねばならな かっ た。ここでローマは彼らの最大の武器の一つである才能を発揮し、無から有を作り出したのである。彼らは船に、ある装置をとり付けた。それ は敵船が近づくと相手の船を自分の船に固定してしまい、それを伝ってローマ兵が敵船に切り込んでいけるものだった。つまりローマが苦 手な 海戦を、陸戦に変えてしまう発想の転換の産物だった。カルタゴ側はたまげただろう。こんな相手は初めてだった。こうしたさまざまな新戦法 を駆使した結果、第一次ポエニ戦争は勝利で終わった。ローマは戦利品としてシチリア島を獲得し、多額の賠償金も得た。そして初めて海 外に 領土を持った。ただしそれまでシチリアはずっとカルタゴの領土で、イタリア半島のように自治都市だったわけではない。いままでのやり方が 通用しない場所だった。そこでローマはカルタゴのやり方を取り入れ、代官を派遣して支配する方式を取り入れた。こうした領地を「属州 (プ ロヴィンキア)」という。そして以後ローマが獲得する海外領土はほとんどが似た状況だったことから、このやり方が一般的になっていった。

この戦争の最中、ローマ軍と対戦したカルタゴの将軍に一人の息子がいた。名をハンニバルという。ローマに敗れて国力を消耗したカルタ ゴ は、その回復のためにイベリア半島の開発を進め、彼の一族はその中心となった。この一族が作り上げた拠点が地中海岸のカルタゴ=ノヴァ市 (「新カルタゴ」という意味。現カルタヘナ市)である。一般にカルタゴ人は商業民族で戦争には熱心ではない。しかし彼の一族は例外 で、 根っからの軍人一家だった。ハンニバルは復讐を誓って現地で採用した兵を鍛え上げた。そして準備が整ったと見るや、イベリア半島沿岸の ローマの同盟都市に攻撃を仕掛けた。こうして第二次ポエニ戦争が始まった。

この戦争は別名ハンニバル戦争という名前を持つように、戦争の中心はハンニバルの一族であり、カルタゴ本国は戦争にほとんど関与して いな い。

彼は開戦後すぐに地中海岸を北上し、現南フランス沿岸地域からイタリア半島に侵入しようとした。しかしローマはすでに万全な構えを築 いて いたのでこれをあきらめ、もうすこし北のアルプス山脈の峠を越えて侵入することにした。そのため陽動部隊が南フランス周辺をうようよして ローマ軍の注意を引きつけ、その隙に本隊はアルプスを越えた。しかしハンニバルの部隊はほとんどが温暖なイベリアやアフリカ出身の兵 士で あり、部隊は多数の象を引き連れていた。凍えるような寒さの中を越えるのは、なみ大抵の事ではなく、数千人の被害者が出た。

ちなみに、これから2000年後、ほぼ同じ場所を同じような目的を持って越えた将軍がいる。かの英雄ナポレオン=ボナパルトである。 ナポ レオンはハンニバルのアルプス越えをかなり意識し、頂上においてハンニバルが行なった有名な演説を、ほぼなぞるように行って、寒さにふる えるフランス兵を激励している。ナポレオンはその後イタリアに侵入し、宿敵神聖ローマ帝国軍をうち破り、フランスの危機を救った。そ して ハンニバルもローマをうち破ることに成功している。

ローマは彼がまさかアルプスを越えてくるとは想像もしていなかった。しかし戦場は自分たちの本拠地である。ローマはカルタゴの倍近い 軍勢 で迎え撃った。ところがそれでもローマは勝てない。執政官スキピオ率いる軍は、初めてハンニバル軍と本格的な戦闘を行ったが大敗してし まった。執政官は重傷を負い、まだ若い息子のおかげで何とか逃げ延びた。ハンニバルはすぐに近くの、もう一人の執政官が率いた軍を襲 撃 し、これもうち破ってしまう。驚いたローマでは新たな執政官を選出してカルタゴ軍を迎え撃ったが、やはりこれもハンニバルの巧妙な作戦に はまってしまい、5万の大軍を動員したにもかかわらず、まったく予想もつかない兵の動きと、地形を徹底的に利用した戦法によって全滅 して しまう。生きて帰ってこられたのはわずか6千人ほどだった。ローマは非常に大きな衝撃を受けた。この男はアレクサンドロス大王を越える天 才かもしれないと噂された。

昔ローマでは、大王が東征に向かわずローマに向かってきていたら、どうなっただろうかという論争があったが、ある元老院議員などはア レク サンドロス大王なんかローマ軍に簡単に破られるだろうと豪語していた。しかし本当にそうかどうか、この頃のローマ人に自信をもってそう言 える人はいなかっただろう。

しかしハンニバルの方にも誤算はあった。ローマ軍をこれほど鮮やかに撃破したので、当然同盟市はローマを見限って自分の側につくと 思って いた。ところが周辺の様子をうかがっても反応はない。一つも同盟を放棄する町がなかったのである。そこでまだショックが必要なのではと考 えたハンニバルは、ローマ軍にさらに壊滅的な打撃を与えるため、あえて直接ローマを攻撃せずに南イタリアに向かった。

この頃ローマの側でも新たな執政官が、直接攻撃せずにカルタゴ軍の消耗を狙う作戦に出た。つまりひたすらカルタゴ軍を追いかけ、昼夜 を問 わず小規模な攻撃を行ない、反撃に出てきたらすぐに撤退するという作戦である。これは敵地で行動するため休息がとりにくいカルタゴ軍に とって非常に痛い作戦であり、実際ハンニバルはあせっていた。

ところがローマではこうした消極的な作戦は不人気であり、指揮官を即刻交替させるべきだという論が高まった。作戦の余りの不人気さに 耐え きれなくなった元老院は、強硬派の新たな司令官を任命して前線に送り出した。こうして行われた決戦が、カンネーの戦いである。ハンニバル が待ちに待った直接対決であり、その天才ぶりが思う存分に発揮された。

9万のローマ軍と5万のカルタゴ軍の戦闘は、わずか数時間で決着した。ローマ軍の死傷者は約6万人。執政官の一人は戦死し、もう一人 は負 傷して戦線から離脱した。他にもこの戦闘に参加していた元老院議員が約80名戦死。この戦いだけでローマは元老院議員の1/4を失ってし まった。一つの戦闘でローマがこれほどの被害を受けたことは、過去にもこの後も一度もない。たった一人の男によって、ローマは国家と して はかりしれない打撃をこうむったのである。しかし、もしハンニバルが未来を予見することが出来たなら、この時一人の若い騎兵を取り逃がし たことのほうを後悔しただろう。この若者はこれまでの二度の戦闘のいずれにも参加しており、どちらも九死に一生を得て逃げのびてい た。彼 こそは初戦の時、父を助けて逃がした執政官の息子だった。この若者の名はプブリウス・コルネリウス・スキピオと言う。後にスキピオ=アフ リカヌス(アフリカの征服者)と呼ばれるローマ屈指の天才も、この時はただハンニバルの恐ろしさに震えて逃げまどう、ただの若造に過 ぎな かった。しかしそんな恐怖の中でも彼はハンニバルという天才を肌で感じていた。それこそが敗戦の中で彼とローマが得た最大の収穫だったの である。

さて、これだけの打撃を与えたのだから、今度こそローマと同盟市の間の信頼関係も揺らぐだろうとハンニバルは期待した。ところがここ に 至っても、まだ一つも反旗を翻すものはなかったのである。おまけに新たに執政官としてローマ軍を率いてきたのは、またあのゲリラ戦の専門 家。やりにくいことこの上ない。さらにとどめは、カルタゴ本国である。これだけハンニバルが本国のために尽しているのに、ハンニバル の一 家、カルタゴでは下に見られていた軍人一族の成功をねたんで何の支援も行われなかったのである。

ハンニバルはうっとうしいゲリラ戦に苦しみ、食糧不足や兵員不足に悩みながら南イタリアで活動を続けた。いつかはローマの同盟市が折 れて くる日を待ちながら。ようやくシチリア島のシラクサ市から支援が来たが、それ以外はまったくだめだった。

この間ローマは、彼の衰弱を早める手を次々と打っていった。一つはカルタゴ本国のある北アフリカ、そしてもう一つが彼の本拠地イベリ ア半 島を攻めることだった。このイベリア半島征服戦争の中、先述した若き天才スキピオはみるみる成長して軍団の信頼を得、老練な司令官の戦死 もあって25才という異例の若さで司令官になった。前例重視の元老院も、カルタゴとの直接戦争のためには適任者はスキピオしかいない と判 断した。スキピオ率いるローマ軍は突如北アフリカに上陸し、初戦で敗北したカルタゴはたまらずハンニバルを呼び寄せた。こうして北アフリ カにおいて二人の天才が激突する。相手が並の才能なら、この戦闘は決まっただろう。しかし今度の相手は「並」ではなく「特上」だっ た。し かもハンニバルとの実戦を何度も経験し、その用兵を機微に至るまで把握していた。おまけにハンニバル軍はイタリアから急行した疲れも残っ ていたし、本国からの支援もじゅうぶんではない。こうして行われたザマの戦いで、生まれて初めてハンニバルは敗北を知ることになっ た。こ うして第二次ポエニ戦争も、最後はローマの勝利で終わった。勝利の立役者スキピオは、元老院から「アフリカヌス」の称号を贈られた(甥 で、やはりアフリカヌスの称号を得たスキピオと区別して大スキピオとも言う)。

カルタゴ市は戦争の経緯から、独立は保証されたが、もはや従属国の扱いであり海外の領土もすべて放棄させられた。また、いっさいの軍 備が 禁止され、ローマの許可無くして戦争をすることはできなかった。さらに賠償金として、現代のお金に直すと約5000兆円という莫大な金額 を課された。日本の国家予算が80兆円程度、50年分なら4000兆円。つまり日本政府のこの間の収入が全て持っていかれることにな る。 とんでもない条件だったが、それでも敗者には拒否することなどできなかった。

なお、北アフリカでの戦争中に、ローマを裏切ったシラクサ市がローマに攻められ、この際、大科学者アルキメデスが殺されている。ま た、一 時ハンニバルと同盟を結んでいたマケドニアもローマに攻められたが、カルタゴの敗色が濃くなると同盟を解消して何とか事なきを得た。しか しローマには不信感が残り、この後の三度にわたるマケドニア戦争の原因となっていく。

第二次ポエニ戦争後、カルタゴでは全市を挙げて復興に尽力した。ハンニバルは結局海外に亡命し、異国の地で亡くなった。

事実かどうかは分からないが、亡命中のハンニバルと旅行中の大スキピオがギリシアでばったり出会ったことがあった。この時スキピオ が、史 上もっとも偉大な指揮官は誰だと思うかと問いかけると、ハンニバルは即座に「第1がアレクサンドロス大王、第2にピュロス王、そして第3 が自分だ」と答えた。スキピオは微笑みながら、もしザマの戦いであなたが勝っていたら、と問うと「アレクサンドロスを越してわたしが 第一 になっていただろう」と答えたという。スキピオがこれにどう答えたかは記録に残っていないが、ニヤリとしただけだったろう。

カルタゴでは復興策がじょじょに成果を出し、ローマでも日々ポエニ戦争やカルタゴへの関心が薄れていった。ところがその状況に警戒を 抱く 政治家が現れた。雄弁家として有名なカトーであった。彼は元老院で何か演説をするたびごとに、内容に関係なく「ところで私はカルタゴは滅 ぼされるべきと考える」で終わった。こうした態度を笑うものもいたが、その言葉はじわりと議員たちの中に染みていったのである。

その後カルタゴがこの莫大な賠償金を早期に返済し終わったことが、ローマの警戒感を高めてしまった。カルタゴからすれば早く返すこと で ローマの信頼を得ようとしたのだが、それが逆効果となったのである。カルタゴ人は生っ粋の商人たちであり、彼らの論理では、予定より早く 返すというとことは、それだけ誠実に対応したと言うことであった。この時点でカルタゴ側にローマへの敵意はなかったのだが、ローマ人 はそ うはとらなかった。ローマ人は基本的に農業民であり、予定より早く返せると言うことはそれだけ余裕があると言うことであり、いつまたハン ニバルのような者が現われてローマを危機に陥れるかも知れないと恐れたのである。前回はハンニバルとカルタゴ市当局が不和であったか ら助 かったのだが、今のカルタゴはローマへの敵意に満ちているはずだ、と考えたのである。この点両者の考え方は完全にずれており、コミュニ ケーションが不足していたのであった。また大カトーの演説はボディブローのように効いていたのだろう。

ローマは出発点から農業国家であり、カルタゴやギリシアと同じく都市国家として出発しながら、その後は覇権国家として成長したこと で、異 なる歴史を歩むこととなった。またこの出発点こそが、その後ローマが同じ農業国家であったオリエント諸国やインドや中国のように帝国化す る道を歩む原因となったのである。つまりローマ共和国は、出発点の中に「ローマ帝国」となる芽をはらんでいたのである。しかしながら それ でもすんなりとオリエントのような帝国にならなかったのは、その出発点に共和政の歴史と伝統があったからなのである。

話は元に戻ろう。ローマの暗黙の同意を得て、カルタゴの周囲の国がしきりに侵入するようになった。カルタゴはローマに解決や援助を求 めた が無視された。ローマの真意を知ったカルタゴはついに第三次ポエニ戦争を行った。カルタゴ市民はこれまで二度の態度とは打ってかわって死 にものぐるいで戦った。しかし最早、カルタゴに力は残っていなかった。3年の抵抗の後カルタゴは徹底的に破壊され、全市民が奴隷に売 ら れ、跡地には大量の塩がまかれて二度と農業などできない不毛の地にされたという。そして豊かなアフリカ領はすべてローマに接収され、この 後ローマ人の胃袋を支え続けた。

この第三次ポエニ戦争でローマ軍を率いて戦ったのが大スキピオの甥、スキピオ=アエミリアヌス(小スキピオ)であった。彼も叔父と同 様、 この功績によって元老院から「アフリカヌス」の称号を得ている。彼には有名なエピソードが残っている。戦争終結時、スキピオと友人のギリ シア人ポリビオスが、二人して燃え上がるカルタゴの町を丘の上から眺めていた。ふとポリビオスが気がつくと、スキピオがボソボソとホ メロ スの『イーリアス』の中の有名な一節「聖なるトロイも滅びるときが来た……」をつぶやいていた。ポリビオスが「どういう意味なんだい?」 と問うと、振り返ったスキピオは彼の手を取りながら「今日は栄光の日だよ、ポリビオス。カルタゴは滅んだんだ。でも私はどうしても心 配し てしまうのだよ。ローマにもいつかこんな日が来るんじゃないかとね」と言ったという。

この第三次ポエニ戦争の少し前にローマは、再び対立したマケドニアと二度にわたる戦争(第二次、第三次マケドニア戦争)を行い、マケ ドニ ア王国は滅び、全ギリシアがローマの支配下に置かれた。

またこの頃からヘレニズム諸国はじょじょに拡大するローマの支配下に置かれるようになっていった。アナトリア半島にあったペルガモン 王国 などはアッタロス王がローマの勢力をおそれ、軍事支配を受けるくらいならと言うことで、遺言で全領土をローマに遺贈した。同じくアナトリ ア半島の北岸にあって豊かさを誇っていたポントス王国も、20年にわたってミトリダテス王がローマと対立した(ミトリダテス戦争) が、最 後は後に登場するポンペイウスによって滅ぼされてしまう。またセレウコス朝も、大スキピオ率いるローマと戦って致命的な敗北を喫した後は 弱体化し、その隙を突いたパルティアによって領土が奪われて弱小国家に転落していき、最後はこれまたポンペイウスによって滅ぼされる ので ある。ヘレニズム諸国で最後まで生き残れたのはプトレマイオス朝エジプトとパルティアだけだった。そしてプトレマイオス朝も前1世紀に最 後を迎えるのであるが、それに関わるのがこの頃のローマの内紛「動乱の1世紀」という時代であった。

■グラックス兄弟の改革


ローマにとって前3世紀から2世紀にかけては領土拡大と経済的繁栄の時期だった。ローマ軍は天才ハンニバルをも打ち負かし、同盟諸都 市と の信頼感も揺るぎない事を証明した。そしてローマは地中海全域の支配者の地位を不動のものとし、経済的な繁栄も手にした。毎年のように ローマの中心ユピテル神殿には勝利の報告が届き、莫大な戦利品が市民に分配された。ローマには恐れるものなどなく、その地位が揺らぐ こと など想像もできなかった。

前述した小スキピオの妻には弟が二人いた。そのうちの兄ティベリウス=グラックスは、名門の出身らしく若くして元老院議員となった。 ティ ベリウスがある時イタリア国内を旅していて気がついた。それは旅すがら出会う農民が、ほとんど外国人の奴隷ばかりだったということであ る。つまり気がついてみればイタリアの農業を支えているのがイタリア人ではなくなっていたのである。ではイタリア人農民はどこにいっ たの か。

実はこの現象の裏にハンニバル戦争があった。カルタゴ軍がイタリア中を荒らし回った10年余りの間、戦場になった地域では放棄された 農地 が目立つようになった。ローマ兵のほとんどは農民であり、それが戦闘ごとに数千~数万人と死亡した。そしてその分の農地で耕作者がいなく なっていたのである。また戦争以外にも、この時期ローマの戦いが広域化かつ長期化しており、兵役義務が最長1年という原則は崩れてい た。 一家の主、男手が不在となれば、機械など無いこの時代、残った老人や子どもや女だけの家族が農業を続けることなど不可能だった。いわゆる 「独立自営農民の没落」という現象であった。土地を手放した一家は、首都ローマなどの大都市でなら何とか仕事を見つけて生きていくこ とが できた。こうしてローマなどには多数の貧民が集まるようになったのである。

れっきとしたローマ市民が、国のために尽くしたために家業を失う。真面目に仕事をやったものがひどい目に遭うと言うことを許しておく こと は国として問題である。政府は彼らに無料の食料給付をするようになる。後の帝政時代にこうした貧民救済策は恒例化し、市民にとって一種の 権利になっていく。その頃には食料給付だけでなく、当時市民の最大の娯楽であった円形競技場での見せ物への無料招待が加わる。こうし た救 済策を総称して「パンとサーカス」という。サーカスは今ではあのアクロバットなどの見せ物をさすが、当時はそれ以外に模擬戦闘や競馬、演 劇も行われた。こうした負担は国家財政を圧迫し、不況や災害などが起こると暴動が頻発し、治安の悪化を招いていったのである。

話は元に戻ろう。自営農民が減少する一方で、戦争で得られた多数の奴隷がイタリアに連れてこられた。そして農業労働者不足と、この奴 隷の 増加という二つの要素が結合する。放棄された農地を富裕な市民が引き取り、奴隷が耕作するという大規模農業経営(ラティフンディウムとい う。農園のことはラティフンディアという。)がイタリア中に広まった。ハンニバル戦争の被害の少ない地域では従来通りの自営農業は健 在 だったが、ラティフンディウムが奴隷を駆使して労働コストが低いのにたいして、自営農家はそうではない。大規模経営に小規模経営はなかな か勝てない。勝つためには現代ならそれなりの工夫もあるだろうが、この時代にとれる手段はそうは無かった。

ローマはすでに民主政になっていたのであるから、庶民にとって困った問題は誰かが動けば何らかの解決法が生まれそうなものだ。しかし 現代 の民主国家でも、社会の指導者層にとって都合の悪い事態はなかなか解決が難しく、解決までに長い時間がかかる。では何が都合が悪かったの か。

ローマ軍が地中海世界を征服し、そこで彼らはギリシアやオリエント世界の繁栄とその文化の高さを知った。帰国した彼らは、かの地で見 知っ たさまざまなものをローマに持ち帰った。それは東方の珍品といった素朴なものから、ギリシア哲学などの高度な知的活動まであった。こうし てローマではこの頃から急速に東方趣味への傾倒が目立っていく。

こうした中でも影響が大きかったのは、奢侈(ぜいたく)の風潮だった。ギリシアの上流階級のような生活、すなわちあふれるほどの食物 や光 り輝く調度品に囲まれた生活、知的な会話。そして貧しい奴隷達を見る冷たい視線と態度、そうしたものを今やギリシアを支配したローマの指 導者層は身につけていった。特にギリシア哲学はローマ人の上流階級に好まれた。詩人ホラティウスはこうした風潮を「ギリシアを征服し た ローマは、文化的にギリシアに征服された」と表現している。彼らはより良い生活を求め、一族の子弟をギリシアに留学させるため、そしてギ リシア人の家庭教師を雇うため、収入を増やすことに邁進した。そんな嗜好を持った富裕層にとって、土まみれの自営農民の没落など他人 事な のである。

グラックス兄弟の兄ティベリウスそして弟のガイウスの二人がやろうとしたことは純粋に愛国的なものだった。それはローマ軍の根幹を立 て直 すこと、つまり没落しつつある農民を救うことだった。それが実現できれば、今まさに崩れつつある、建国以来続いてきた健全な市民中心の軍 は復活できるだろう。しかしそのために、すでにハイレベルの生活を送っている人にレベルを落とさせることは可能だろうか?想像してほ し い。毎年海外旅行に行く家族、ピアノやバイオリン演奏を自分の人生の一部にしている人々が、それをあきらめることは可能なのだろうか? ティベリウスが始めた改革とはそういうものだったのである。

彼は前133年、こうしたアイデアを胸に秘めたまま護民官に当選し、当選後さっそくその実現に取りかかった。さいわい、彼の出そうと した 案は、前367年に公布されながら土地制限に関しては一度も実行されなかったリキニウス・セクスティウス法とほぼ同じ内容だったので、何 とかなるかと思われた。しかし彼が改革の趣旨を説明し始めると、その危険性を理解した最上層階級ノビレスやそれに連なる人々(エクィ テス と呼ばれた)から猛反対が起こった。議員の多数が反対に回り、議案は葬られそうだった。このため彼は前例を無視し、法の抜け穴を利用した 強硬策で改革案を成立させた。そうしたやり方は、例え趣旨は立派であっても護民官にあるまじき行為であった。しかし法の制定だけやっ ても それでは改革にはならない。これを実効あるものにするためには、いやがるラティフンディア所有者をなだめるための補償金が必要だった。そ してちょうどこの頃、前にも書いたペルガモン王国領がローマに遺贈されたのである。ティベリウスはこれをその資金源にしようとした。 しか しこれも法で保障されてはいなかったものの、慣例では元老院議員の独占権とされていて、前例にないことであった。ここにいたって反対派は 決意した。ティベリウスは法を無視する独裁者であり、破滅の源である。何とかしなければ自分たちの豊かな生活が奪われると。この頃 ティベ リウスの任期も終わりに近づいていたが、彼にはまだ多くのやり残したことがあったため、護民官に再び立候補していたが、これも前例のない ことだった。もう迷ってはいられなかった。

選挙の日、ティベリウスは自発的に彼を守ろうとした人々に囲まれながら選挙会場に現れ、投票が始まった。しかしその最中、突如武器を 持っ た多くの暴徒が会場に乱入し、大騒ぎとなった。騒ぎが収まって人々が目にしたのは血まみれの遺体だった。

こうしてティベリウス=グラックスの改革は失敗に終わった。しかし改革案は成立している。反対派もティベリウスが葬り去られ、改革の 仕上 げさえ行われなければ害はないと考えたようだった。しかしその遺志を受け継ごうとしたものがいた。それは弟のガイウスである。

ガイウスは事件のほとぼりが冷めたのを見計らって、兄の死後9年目にして護民官に立候補し、当選した。グラックスの名が兄を思い出さ せ、 その人気を支えたのである。そして同じ名が元老院議員の多くに恐れを抱かせたが、ガイウスは兄の遺志は継ぐがその手法は継ぐつもりはな かった。彼は兄のような直球勝負だけではだめだと考え、元老院議員の横暴を防ぐ法律を制定したり、反対派を切り崩すために政治の場か ら阻 害されていたエクィテス勢力が政治に関与できるようにして彼らをノビレスから切り離そうとした。また、ローマの同盟市には、市民の一部だ けでなく全員にローマ市民権を与えようともした。こうした一連の改革は、100年後には大きな支持を集めるようになるが、この時点で はま だ早すぎた。エクィテスも同盟市民も改革には賛成だったが、ノビレス階級はまだ強すぎたのである。ガイウスも懸命に対抗したものの、結局 改革は失敗に終わった。しかし反対派はそれだけでは不十分と思ったのだろう。やけになった賛成派の一部の過激な行動を理由に、元老院 がガ イウス一派を「共和国の敵」と宣言する。これは市民の法の保護を奪い、暴力を使おうが何をしようが反対者の好きなやり方で生命を奪ってよ いとする、とんでもない決定であった。ガイウスは自殺し、元老院の多数派は、ホッと胸をなで下ろした。これでようやく穏やかな生活が 送れ ると思っただろう。彼らは自分たちの生活と引き換えに軍の弱体化を選んだのである。

しかし改革をつぶされた方はがまんならない。民衆の怒りも続いていたし、同盟市にも不満が渦を巻いていた。また、この事件は元老院の 統治 能力、自己改革能力に深刻な疑問を投げかけた。はたして元老院を中心とする古来の政治体制は立て直せるのか、それとも別の体制に移行すべ きなのか。立て直せると考えた人々が閥族派(オプテマテス)と呼ばれる。それはノビレス階級に多かった。一方で貴族の一部や平民には 悲観 的な者が多かった。彼らはポプラレス(民衆派)と呼ばれ、新体制を志向していたがどんな体制かはまだ明確ではなかった。この二つの勢力の 議論と対立が、このあと約百年の間続くローマの内戦「動乱の一世紀」(または内乱の一世紀)の背景になっていくのである。

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