世界史,歴史,大学入試,認知心理学
『世界史読本』
◇ヨーロッパ古代の終わり
■西ローマ帝国の滅亡
330年のコンスタンティヌス1世による新都コンスタンティノープル(旧ビザンティウム)の建設と遷都は、いず
れこの町が第2のローマになることを意味するようになっていく。ローマは相変わらず西ヨーロッパの中心地であり続けたが、その重要性はし
だいに低下し、空虚な雰囲気が町を覆うようになった。
西ローマ各地の都市でも、重税にともなう商工業の衰退が、重苦しい雰囲気をかもしだし、ゲルマン民族の「大移動」による治安の悪化、
軍隊 による臨時徴税の恒例化がこれをさらに悪化させていった。
こうした雰囲気の中で起こったのが、476年の皇帝親衛隊長オドアケルによる西ローマ帝国の滅亡だった。この事件は、何とか機能して
いた
領域国家としてのローマ帝国という存在を消滅させ、ヨーロッパの西半分が、混乱状態に陥ったことを示している。ただし、すでにイベリア半
島(今のスペイン)には西ゴート王国が独自の政府を確立しており、ガリア(現フランス)にもブルグンド王国が、ヴァンダル族などは、
地中
海の向い岸、かつてのカルタゴの故地に王国を作っていた。しかし、これらの国々は、ローマ人に対してはローマ法を適用すると約束し、そし
て実際それは多くの場合実行されたが、決して文明人とは思えないゲルマン民族の言葉である。ローマ人にとって、そっくりそのまま信用
でき るものではなかった。
こうした、半ば無秩序と不信感が広がる中、イタリアを東ゴート族が支配するようになり、ガリアにはフランク族が進出して来た。
■フランク王国の登場
フランク族は現在のドイツ西北部、ライン川右岸が故郷であり、長い間他の部族に従属していた。それがメロヴィング家のクローヴィス1
世が
481年部族をまとめあげて即位し、ガリア北部に王国を建てたのである。彼はこの後、王妃の勧めで家臣4000名と共にキリスト教アタナ
シウス派に改宗したのであった。これは、アリウス派の信者が多いゲルマン系の諸王の中では珍しいできごとだった。しかしこの小さな偶
然 が、後にこの小さな国の運命を大きく変えてしまうのである。
ゲルマン系の国々は、旧来のローマ系住民に比べて人数的には圧倒的に少数派であったし、ローマ帝国のような政治運営のノウハウなど
持って
いなかったから、ゲルマン系国家の運営は必然的にローマ人の官僚が担うことになっていた。しかしそのやり方は当然旧来のローマ帝国時代
の、ローマ帝国の言語で運営され、儀式等はキリスト教アタナシウス派のやり方に則って行われる。これにアリウス派のゲルマン人たちが
反発 したのである。
ゲルマン人たちは、王の権限が強いが、重要事項は民会で部族民の意思を確認して決定する。このあたりはローマ人と大差ない。ローマ帝
国が
健在であった時代に支配層はキリスト教を受け入れていたが、まだまだ古来の北欧神話のなごりは生活や習慣の隅々に残っており、イエスが
神・聖霊・人の三位一体だとする、哲学的で分かりにくいアタナシウス派よりは、イエスは人だ、と断言するアリウス派のほうが分かりや
す かった。もしもこの頃イエスを神とする単性説が伝わっていれば、これも広まっていたかもしれない。
ゲルマン民族には国家運営でも特徴があった。かれらは領土も王や貴族の個人的所有物、財産の一部と考えていた。したがって、王や貴族
が死
ねば、その領地は子孫に分割相続される。当時は今と違って幼児の死亡率は高く、一般的に子どもの数は多かったが、成人にまで達する者は少
なかった。それでも代を重ねることに領土が縮小することは避けられない。フランク王国は王や支配層がアタナシウス派でローマ系住民と
の摩
擦が少ないという点で、他のゲルマン国家よりは国家運営においてはるかに有利な立場にあったが、他の国と同様に、次第に国家としては弱体
化していった。
このような状態のこの国で、弱体化した王に代わって王国の実権を握ったのが宮宰職のカロリング家であった。宮宰とはもともとは王個人
の私
的財産の管理者という役であったが、公私の区別があいまいなこの時代、しだいに王国全体の財務・軍務・行政にも関与するようになり、国全
体に大きな権限を振るうようになっていった。
こうしてカロリング家はしだいに勢力を伸ばしていったが、それだけなら歴史に名を残すこともなかっただろう。カロリング家がそうなっ
たの は、ヨーロッパに危機が到来したからであり、その危機をカロリング家が救ったからなのであった。
◇ローマ教会とフランク王国の提携
■イスラームの脅威
8世紀の初め、イベリア半島南部からヨーロッパに侵攻したイスラーム教徒の国ウマイヤ朝の軍勢は、711年に西ゴート王国を滅ぼす
と、ま たたく間に半島全域を制圧し、その勢いで南仏にまで勢力を伸ばし、さらに北方や東方へと勢力を広げようとしていた。
これで危機に陥ったのが侵攻先のフランク王国、そしてイタリアのローマ教会であった。当時は今と違って、フランスの地中海沿岸以北は
うっ
そうとした森林に覆われており、これがウマイヤ朝の侵攻をしばらくの間防いでくれていたが、それもいつまで続くのかわからなかった。こう
してフランク王国は国家存亡の危機にあったのだが、王権は弱体で、イスラーム軍の侵攻を国家をあげて迎え撃つという状況ではなかっ
た。
この時フランク王国以上に危機感を持っていたのはローマ教会であった。イスラーム軍の侵攻は西方からだけではなく、シチリア島方面、
つま
り南方からの侵攻も十分あり得た。もしイタリアがイスラーム教徒に征服されたらどうなるのか。これはゲルマン人たちに征服されたのとはわ
けがちがう。ゲルマン人たちは曲がりなりにも支配者層はキリスト教徒が多かった。その分自分たちの存続に不安はなかった。しかし、イ
ス
ラーム教国家はそうではない。すでに彼らの治める地となったイェルサレムやエジプト、シリアがどうなっているか、ローマ教会にはよくわ
かっていた。多くのキリスト教徒が信仰を捨ててしまったのである。彼らの統治を受け容れると言うことは、みずからの存在を否定するこ
とな
のである。こればかりは何としても防がねばならなかった。そんな折に、726年に東ローマ皇帝が出した聖像禁止令をきっかけに、それまで
くすぶっていた東西の教会の主導権争いが表面化した。ローマ教会はこの禁止令を非難し、それまで行われていた東の教会への貢納を停止
して
いる。これはやがて教会大分裂、そしてローマ教会の自立につながるきっかけとなる。しかし当面は、余りにも周囲の状況が厳しかったことか
ら、両教会とも深刻な対立は避けねばならなかった。そんな中、ローマ教会にとって、こうした状況においてその存在を保護してくれる存
在が 無いことは何より不安なことであった。
■カロリング朝の始まり
732年の秋、ついにウマイヤ朝が動いた。南仏から出発した大軍は、フランス西北部の都市トゥール市をめざしていた。これに対抗した
のは
フランク王国の宮宰カール。のちにカール・マルテル(鉄槌公)と呼ばれる、実質は王国の最高権力者であった男だった。両軍はトゥール市と
ポワティエ市の間の平原で激突し(トゥール・ポワテイエ間の戦い)、この日のうちに勝敗は決まった。司令官を失って敗れたイスラーム
軍は
南方に退却し、結局ピレネー山脈の向こう側にまで撤退していった。フランク王国は勝利の報せに沸きかえり、一躍カールの名は全ヨーロッパ
に響き渡った。
しかしながら、カール本人は喜んではいる暇はそうはなかった。確かにこの戦いには勝利した。しかしフランク側は、実際の戦闘ではいや
とい
うほど敵のすぐれた装備の威力を見せつけられていたが、相手はフランクの戦法になれていなかった。そしてたまたま相手側の司令官が戦死し
た。イスラーム側が、見知らぬ土地で戦い続ける不利を計算して退却したのは分かっていた。自分が司令官でもそうしただろう。そしても
し万
が一、彼らが再び来襲する時が来たら、その時も勝てる自信はなかった。それほど両軍の装備の差は大きかった。これは急いで何とかしなけれ
ばならなかった。
こうしてカールは、大急ぎで国家改革と軍事改革を断行する。問題はその財源だったが、ここで注目したのが教会の財産だった。当時教会
は王
国各地に広大な領地を持っていたが、彼はそれらを次々と没収し、彼個人に服従と忠誠を誓う家臣達に貸与していった。彼はまだ国王ではな
かったため、あくまでもこの関係は個人対個人の約束の形で行われた。この関係はゲルマン人の伝統的な上下関係とよく似ていたことか
ら、家
臣たちにも受入れやすかった。一方、この関係はあくまでも上下二者間のみの双務的(両者が対等な義務を負う)なものであったから、「家臣
の家臣は家臣でない」ことになったり、ある家臣が別の有力者の家臣になるなど、国家体制としては弱体になる面もあった。こうした一連
の関
係を恩貸地制という。さらに、この時に国王とその家臣との間で結ばれたさまざまな特権を保障する個人対個人の双務的関係を従士制という。
この二つの制度は結合し、やがて西ヨーロッパ全土に広がる。これが西ヨーロッパの封建制度である。
しかし何はともあれ重要なことは、ヨーロッパの防衛体制を固めることであった。そのため、領地を没収されて大いに不満であった教会で
さ え、しぶしぶながらではあったが協力をしてくれた。こうした中、最後まで非協力的であったのが、メロヴィング王家であった。
王家を廃さねばならない。カールを王に、という声があちこちで高まった。ただしカール本人は王位簒奪者という悪名を負うことを嫌っ
て、即
位には消極的だったため、このことが彼の存命中に実現されることはなかった。これが実現されるのは彼の子、父親同様に聡明で実行力があっ
たピピン(カールの父の名もピピンだったため、歴史上この二人を区別するため小ピピンまたはピピン三世と呼ばれる)の時であった。小
ピピ
ンは父が築いた国家体制を利用し、次々と大事業を成し遂げていった。ローマ教会を脅かしていたゲルマン国家、アリウス派のランゴバルト王
国を何度も打ち破り、教会に脅威を与えるものはこうなるぞ、と言うことを見せつけた。さらにローマ教会に対する財政面での援助とし
て、没 収した教会領を返還した。さらに、教会財政の安定化を助けるため、十分の一税の創設を認めた。
こうしてローマ教会はじょじょに自立していったものの、まだまだ不安はあった。何と言っても、こうした状況はあくまで小ピピンという
個人
の才能に頼っていたということである。小ピピンの子カールも聡明であったが、永久にこうした個人に頼るわけにはいかない。何としてもロー
マ教会は永続的な保護者が必要であった。それには、カール・マルテルの時以来の課題、すなわち安定した保護者の存在という問題を解決
しな ければならなかった。そしてこれは、父と違って野心家であった小ピピンにとっても同じであった。
ある日ローマ教皇ザカリアスの所に、使いの者が来た。誰からの使いか、その者は尋ねても決して語ろうとしなかった。その使者が持って
きた
ものは次のような内容の文であった。「王の称号を持つのみの者と、王ではないが王権を行使する者のどちらが王たるべきか」。教皇は文面を
見ただけでピンと来た。小ピピンがついに即位を決断したということ、そして教皇の支持を欲しているということだった。すぐに彼は匿名
の主
に返答した。「真に王たるべきものが王たるべし」。こうして751年小ピピンはフランク諸侯の支持を得て国王に即位した。教皇ザカリアス
は彼を国王と認めた。カロリング朝の開始である。
ピピンはこの時、即位の支持に対する返礼として教皇に領土を寄進した。いわゆる教皇領の始まりである。これによって、それまで寄付と
い
う、不安定な形でしか収入を持たなかったローマ教会が、初めて安定した収入源を持ったのである。教会組織にとって、いつも誰かの保護に頼
らねばならない状況からの脱出であった。こうしてフランク王国の王朝交替は、カロリング家と教会との二人三脚によってなし遂げられた
ので あった。
しかし、この両者の置かれた状況は、決して楽観できるものではなかった。この8世紀後半という時代、次々と危機の報せがやってきた。
まず
ピピン即位の前年、イスラーム側に変動があった。ウマイヤ朝の滅亡とアッバース朝の成立である。これにはピレネー山脈の南側でも動揺が
走った。ウマイヤ朝の熱心な支持者が多かったからであった。そしてまもなく、一族を殺されたウマイヤ家の生き残りであるアブドゥル=
ラー
マンがやってきて自立した。後ウマイヤ朝の誕生である。カロリング朝にとっては、全盛期のウマイヤ朝とは比べものにならないが、それでも
強敵であり、危険な状態であることは代わらなかった。
さらに当時、東欧には何度撃退されてもすぐに略奪行為をくり返す遊牧民族アヴァール族の王国があり、ランゴバルト王国もまだまだ勢力
を残
していた。そんな時期に小ピピンは亡くなる。そしてこの困難な状況に立ち向かわねばならなかったのは、ピピンの子で祖父と同じ名のカール
であった。フランク国王としてはカール1世である。彼はその偉業から、後にカール大帝(フランス語ではシャルルマーニュ)と呼ばれ
る。
■カール大帝と西ヨーロッパ世界
カール大帝の活躍は歴代国王の中でも群を抜いた。彼の代に、ランゴバルト王国、アヴァール王国は滅ぼされ、フランク王国は現在のドイ
ツ・
フランス・北イタリアを含む広大な領域に広がった。さらにカールは異民族の来襲に備えるための恒常的な防衛網を築いた。東方の境界線を押
さえるための基地がオスト(ドイツ語で東)マルク(ドイツ語で境界)で、これが現在のオーストリアの起源となる。またゲルマン系デー
ン人 との境界がデーン・マルク(デンマーク)となる。
さらにカールは、当時キリスト教の教義についての東ローマ教会とローマ教会との対立において、一貫してローマ教会を支持し、東ローマ
教
会、というよりビザンツ帝国にとって敵であったイスラーム帝国アッバース朝のハールーン=アッラシードと、敵の敵は味方とばかりに友好関
係を結び、東ローマに有形無形の圧力をかけていった。アッバース朝との友好関係は、両者の共通の敵である後ウマイヤ朝に対するものと
いう 意味もあった。
カールは、この南からの脅威に対抗するため、何度かピレネー山脈を越えて遠征軍を送っている。大半は失敗に終わったが、イベリア半島
の北
東の一角に、スペイン辺境伯領、のちにスペイン王国の起源の一つとなる国をつくることに成功する。なお、この時の不成功に終わった遠征の
折の悲劇をもとに作られた物語が、中世騎士文学の名作の一つ『ローランの歌』である。この中でカール大帝は身長2メートルの大男とし
て描
かれているが、彼の足(foot)の大きさが後の英米の長さの単位フィート(単数はfoot複数がfeet)になったという伝説がある。
また、トランプのハートのキングの図案のモデルがカール大帝であるとされている。
カールはこうした軍事行動の一方で、文芸の保護にも努めた。彼が最も長く滞在した町(事実上の首都)アーヘンには、キリスト教世界か
ら有
名な学者が集められた。中でも最も有名な人物が、イギリスから呼ばれたアルクィンで、キリスト教の理論化(神学の成立)において非常に重
要な役割を果たした。
こうしたカール大帝の多大な業績に報いるため、ローマ教会はその地位の更なる永続化を図った。西暦800年のクリスマス。カールは教
会で
ミサを受けるために、ローマの聖ピエトロ寺院に来ていた。儀式の途中に突如教皇レオ3世がカールの頭の上に冠を被せた。それは476年オ
ドアケルが殺害した最後の西ローマ皇帝から、300年余り教会が預かり続けてきた西ローマ皇帝の冠であった。ローマ教会はみずからの
手で ローマ皇帝を創り出したのだった。
これに対して、当時唯一かつてのローマ帝国の権威を受け継いでいた国家ビザンツ帝国が、当然のようにこれに異議を唱えた。しかし、ビ
ザン
ツ帝国にも弱みがあった。というのも、当時帝国の実権を握っていたのが前皇帝の母イレーネ。彼女は女帝を称していた。これまでローマ帝国
には女帝の例はない。この点がビザンツ側の弱みだったのである。結局カール大帝がビザンツ側に領土の一部を割譲することで両者の妥協
が成 立した。ビザンツも西ローマ帝国の復活を認めたのである。
カール大帝は死に際して、その領土を子どもに譲る。ゲルマン人たちにとって、国家は国王の所有物という感覚である。今の「国家」とい
う感
覚はない。たまたま彼には成人した子がルートヴィヒ(フランス名でルイ)しかいなかったため、カールの帝国(フランク帝国)は、完全な形
で受け継がれたが、ルートヴィヒには子が三人いたため、帝国は三分されることになる。三人は父の死後、正確な領土の分割を行う。それ
が
843年のヴェルダン条約であった。しかしこの分割に不満があった次男・三男が、長男の死後再び分割のやり直しを行った。これが870年
のメルセン条約であった。そしてこの時の分割に基づき、この三国すなわち東フランク王国(のちのドイツ)、西フランク王国(後のフラ
ン ス)そして中フランク王国(後のイタリア)という領域が成立する。
このように、フランク王国の時代は、後の西ヨーロッパ世界の原型ができあがる時代であった。そして、このできたばかりの西ヨーロッパ
世界 に、東ヨーロッパとの決定的な違いをもたらすのがノルマン人であった。
◇中世という時代
■ノルマン人の活動
ノルマン人は「ヴァイキング」の名で有名である。彼らはゲルマン民族の一種であるが、フランク族などがローマ帝国末期の混乱を利用し
て帝
国領内に次々と移住していったのに対して、現住地に残留したり、北のバルト海方面に移住していった集団であった。彼らは別名デーン人とも
いい、その多くはヴァイキング=海賊のイメージとは異なり、平時には農民であったり漁民でもあった。
彼らは、一方では北海沿岸を航海しながら、他方では内陸河川を遡りながら、各地に木材木工品や北欧特産の琥珀などの宝石加工品や毛皮
など
をもたらした。その際に彼らが使った船が「ヴァイキング・シップ」と呼ばれる船である。これは舳先が高く尖り、オールと帆を利用してどん
な細い川でも遡れるし、沿岸部なら海の上も走れ、場合によっては人が担いで川から川へと移動もできるという、中世においては万能の移
動手 段であった。
このノルマン人たちがなぜ「海賊」化したのかは、未だにはっきりとしない。どうやら「中世温暖期」と呼ばれる、十世紀から十四世紀に
かけ
ての温暖な時代に人口が過剰に増えたこと、さらにはこの時期の西欧が混乱期で、海賊が活躍しやすい状況にあったこと、そして彼らが扱う商
品を欲しがる人々が増えたことなどが原因の候補に挙がっている。
中世温暖期については、ノルマン人の一部が、グリーンランドに移住し、一部は北米大陸に入植移民したことも分かっている。現在ほとん
ど氷 に覆われているグリーンランドは、当時は定住が可能なほど温暖だったのである。
ノルマン人たちの活動はほぼヨーロッパ全域にまたがっていた。中にはスペインや地中海にまで侵略の矛先を向けたこともあった。彼らは
北欧
で手に入る商品を仕入れ、遠征先で販売すると、今度はそこで手に入る商品を仕入れ、また違う土地でそれを売買すると言うことをくり返し
た。特に、この当時急速に需要が高まった商品が一つあった。奴隷である。
八世紀西アジアにイスラーム帝国が成立して以来、地中海沿岸~中央アジア地域に平和が訪れた。それに伴い、「陸の道」「草原の道」そ
して
「海の道」と、ユーラシア大陸をまたがる交易ルートが活発化していった。イスラーム帝国が商業を保護したためである。六世紀~7世紀にビ
ザンツ・ササン両帝国が激突していた時代とは大違いであった。
こうした経済的な繁栄は全体的な生活レベルの上昇をもたらした。そしてそれに伴って需要が増大したのが奴隷であった。この西アジアに
おけ
る奴隷需要を満たしたのは南方のアフリカからもたらされる黒人奴隷と、東方の中央アジアからもたらされるマムルーク(トルコ系軍務奴隷)
そして北方からもたらされるヨーロッパ系奴隷であった。このヨーロッパからもたらされる奴隷を供給していたのがノルマン人であったら
し い。もちろん彼らが扱っていたのは奴隷だけではなく、それ以外の商品の方が多かったが。
ノルマン人は九世紀から一〇世紀にかけては西欧各地に略奪的な侵略を繰り返した。ブリテン島(現イギリス)では8世紀から小規模な侵
攻が
あったが、9世紀に活発化し、一時はアルフレッド大王が海軍を整備して撃退に成功したが、それ以外の時はほとんどが受け身に回って多大な
被害を受けていた。
彼らの襲撃は計画的であったが、少人数で慎重に行うため、事前に撃退することはほとんど不可能であったし、万が一常時警戒するとした
ら、
経費が莫大となるため、割に合わなかった。885年には3万人ものノルマン人がパリを襲い、市民はセーヌ川の中州のシテ島に立てこもって
一年あまり徹底抗戦せざるを得なかった。その間に、本来彼らを守らねばならないはずの西フランク王に援軍の要請が行われた。しかし王
は、
結局救援には来たが、戦わずに大金を支払うことでノルマン人と和解する。パリ市民はこうした王の態度に失望する。そして逆に、パリ市民を
鼓舞し、懸命に町を守り抜いた領主パリ伯への支持につながっていった。これが後にカロリング朝の廃絶後、パリ伯ユーグ=カペーのフラ
ンス 王即位(カペー朝の開始)へとつながるのである。
やがて十一世紀になると徐々にノルマン人たちの侵略活動は収まっていった。そのきっかけは911年のノルマンディー公国の建国であ
る。た
び重なるノルマン人の侵略に苦しんだ西フランク王国は、ノルマン人の族長ロロに、キリスト教の受容と引き替えにノルマンディー地方を与
え、家臣とした。その頃からノルマン人の定着が始まる。東方では、伝説ではあるがスウェーデン系ノルマン人のルス族(ルーシ)の族長
リューリクがロシアにノブゴロド国を建設し、リューリクの子の時には分国キエフ公国が建設された。
やがて西方では、ノルマンディー公がアルフレッド大王亡き後のイングランドの混乱を知って王位を主張し、ヘースティングスの戦いに
勝って イングランド王ウィリアム1世として即位した(ノルマン朝の開始)。彼は現イギリス王家の直径の先祖となる。
また南方では、ノルマンディー公国の騎士が地中海に進入し、イタリアの複雑な政治情勢を渡り歩くうちにローマ教皇の支援を得、南イタ
リア およびシチリア島を征服し、シチリア王国を建国した。
こうして彼らはしだいにヨーロッパ世界の一員となっていったのである。
■封建社会の成立
ノルマン人の侵攻が続く中、パリでパリ伯が頼られたように、頼りにならない国王に代わって各地の住民が頼ったのが、地元の領主であっ
た。
彼らは住民を守るのと引き替えに、住民から税を取り立て、戦時には税の一種として住民の一部を兵士として徴発した。兵士たちは、領主が他
の領主と結んだ相互防衛の契約に従って、自分たちとは直接関係ない戦争に行くこともあったが、それはそれで、旅行のような性格もあっ
た し、戦場では掠奪が許されたので、生きて帰れれば金持ちになることもできたので、決して嫌がられはしなかった。
こうした全ヨーロッパ的な治安の悪化に伴い、さらには後で述べる広大な森林地帯の存在もあって、ローマ帝国末期から続いていた商業の
衰退
は決定的になり、町と町の交流は途絶えがちになった。ヨーロッパはこの頃、自給自足的な色あいを深めていたのである。たまに町にやってく
る商人たちは歓迎されたが、一方で彼らは山賊や海賊の仲間かも知れなかったし、伝染病を持ち込むこともあった。このように、中世の社
会に
おいて、異邦人とは貴重な情報源であり、平凡な日常に変化を与えてくれる存在ではあったが、恐ろしい存在でもあった。今でも色々な国の異
邦人という言葉(英語ではAlien)にはこうした意味合いが残っている。
こうして西ヨーロッパでは、恩貸地制、従士制、そして領主による強い領地支配、その裏返しとしての王権の弱さが渾然と一体となった社
会が できあがっていった。これが封建社会であり、こうした体制を封建体制という。
こうして九世紀から十一世紀の間、西ヨーロッパは、地域間の交流が極端に少ない時代を経験する。こうした状況は、他の世界には余り無
い。
「中世」という時代は本来西ヨーロッパにしか存在しないのである。このような時代の存在が、西ヨーロッパという地域に非常なユニークな性
格をもたらした。
そして、こうした西ヨーロッパの特殊性に一役買っていたのが自然条件だった。現在では信じられないが、もし当時のヨーロッパを上空か
ら眺
めることができたなら、眼下に広がるのは大陸ほぼ全域を覆う大森林地帯だったろう。その緑の絨毯の間にわずかにある空間は、ライン川や
セーヌ川といった大河か、数少ない都市だけであった。
さらにこの時代、都市と言っても、当時のアジアの諸都市と比べるとその小ささは際立っていた。たとえばフランク帝国の事実上の首都
アーヘ
ンでさえ、せいぜい数千人しかいなかった。このあまりの小ささと農業生産能力の低さのため、カール大帝は常時官僚集団と軍団をこの町に置
くことができなかった。せいぜい数カ月で食料などを消費しつくしてしまうからであった。
一方で目を東方に転じると、カール大帝と親しかったアッバース朝の皇帝ハールーンの首都バグダードが人口150万人、中国唐王朝の首
都長
安が100万人超。日本の平城京でさえ15万人あったのである。ヨーロッパの人口は圧倒的に少なく、ここから見ても商業の不活発は明白で
あった。
■フランスとドイツとイタリア
カール大帝の死後、フランク帝国は息子のルートヴィヒ(フランス名ルイ)が全帝国を受け継いだ。というのも、彼以外に直系の後継者が
いな
かったためである。ルートヴィヒは懸命に父の残した帝国を守っていたが、すでにノルマン人の侵略が各地で始まっており、帝国の維持は困難
を窮めた。
ルートヴィヒが死ぬと、広い帝国を維持するのが困難になったためと、ゲルマン民族の伝統的な相続法に従って、フランク帝国は三分割さ
れ
た。843年のヴェルダン条約でライン川流域とイタリアが長男の、東フランクが三男の、そして西フランクがノルマン人の所でも出てきた四
男のシャルルの領土となった。帝国は、帝位こそ長男が継いだが、各国はほぼ対等の立場となり、二度と結びつくことはなかった。なお、
長男 の死後再び領土問題で対立が起こり、870年のメルセン条約でようやくこの問題は決着する。
しばらくの間は各国とも自国の維持に手いっぱいで、カール大帝の時のような西ヨーロッパに覇を唱えるような存在は出なかったが、西欧
全体 を危機に陥れるような事態はなかった。この間に3フランク王国では次々とカロリング家の一族の血統が絶えてしまった。
9世紀にビザンツ帝国の衰退の隙をついて東欧ハンガリー平原に侵入・定着していたマジャール人が、十世紀にはいって西進を開始し、
ヨー
ロッパに危機が訪れた。マジャール人は中央アジアあるいは北アジア出身の遊牧民族で、匈奴やフン族ともつながりがある可能性のある民族で
ある。
この危機を救ったのが東フランク王のオットー1世で、レヒフェルトの戦いでマジャール人を破ると、引き続いてイタリアの混乱を鎮め、
ロー
マ教皇の危機も救った。こうした功績を称えて、教皇は彼に西ローマ皇帝の冠を授けた。こうして以後代々帝冠は東フランク王に継承され、
カール大帝の後継者は東フランク王となることが確定した。十五世紀に神聖ローマ帝国と呼ばれるようになる帝国の事実上の誕生であっ
た。こ
の後、オットー1世のザクセン家がしばらくの間帝位を継ぐが、その後も東フランクは、帝位が有力貴族間の選挙で選ばれる伝統が続き、ザク
セン家が帝位を世襲することはなかった。しかし、選挙による皇帝選出という仕組みは、有力貴族が相互に牽制し合うため、どうしても皇
帝に
無難な人物が選ばれてしまう。また、選挙のしくみが不明確だったため、選ばれた人物の正当性も不明朗となり、それが有力貴族が力を保持し
続ける原因となった。さらに帝位が最終的にローマ教皇の信認を必要としたことから、イタリア情勢に深く関わる必要が生まれ、「イタリ
ア政
策」と呼ばれる、皇帝がイタリア情勢に過度に関わる傾向を生んだ。従って東フランク(=ドイツ)皇帝は、ドイツでは力が弱いのにイタリア
にどっぷり深く関わる形になってしまった。つまり一家の長が、家族中から軽んじられているのに、自分の家のことを投げ出して親戚の家
に関
わるという形の国だったのである。ドイツではこのため、長い間強い権力者が現れなかった。これが原因で、この国では危機への対応が遅れる
こととなり、現在の地方自治の強さとなるのである。
中フランク王国でもカロリング家は断絶し、その後、諸勢力の対立の中、結局東フランク王が王位を兼ねることとなった。従って、三分割
され
たフランク王国は一応二つにまとまったのだが、前述のように東フランク皇帝の力が弱体なため、イタリアもドイツ同様、なかなか強力な政権
が生まれず、地方自治が強い国となっていった。
西フランクは当初3王国ではもっとも弱体であったが、王位についたカペー家が、着々と勢力を拡大していったため、じょじょに安定して
いっ
た。16世紀フランソワ1世の時代には、ヨーロッパの歴史を左右するほどの大勢力となり、その後、直系の王族が断絶した後も分家が安定し
た王朝を作り上げていった(後の王家ヴァロワ家もブルボン家もカペー家の分家)。
■中世の温暖化と農業の変化
中世ヨーロッパの人口の少なさ。それには当時の気候が関係していた。ヨーロッパは土壌が栄養分に乏しく、9世紀までは気候は全体的に
現在
より冷涼であったたし、農業の技術も低かったため、生産性は低かった。当時は主食の小麦でさえ、収穫量は播種量の2倍程度しかなかった。
つまり、一粒の麦をまいても、二粒しか収穫できないと言うことなのだ。このような世界が多くの人口を養えるわけがない。もし、この時
代に
ヨーロッパに隕石が落ちてきて、ヨーロッパ人が死滅したとしても、おそらく世界には何の影響もなかっただろう。それほどこの時代のヨー
ロッパは、人口が少なく経済も不活発で、重要性は低かったのであった。
ノルマン人の所でも少し述べたが、ヨーロッパでは10世紀頃からじょじょに気候が温暖化していった。これに伴い、最も影響を受ける農
業生 産が向上し、人々の生活レベルも向上していった。
農業生産の向上は、二つの面で行われていった。一つは農地面積の拡大で、主にこれを行ったのが、教会組織、特に修道院であった。修道
院
は、もともと古代から行われていた、世俗世界から離れて修業に専心しようとする運動から生まれたものであるが、ローマ帝国時代末期に、聖
フランチェスコ(アッシジのフランチェスコ)が「祈り、働け」をスローガンに始めたのがヨーロッパ型の修道院運動だった。それがやが
てア イルランドに広がり、続いてイギリスやヨーロッパに伝わる形で全ヨーロッパに広まっていった。
修道院は信仰の証として労働を重視し、修道士たちは早朝まだ暗いうちから起きだし、祈る時間の他はほとんどを農作業に充てていた。そ
して
10世紀頃の農作業の大半を占めていたのが森林の開墾だったのである。熱心な働き手である修道士のおかげで、ヨーロッパ北部を覆っていた
大森林地帯はじょじょに面積を狭めていった。彼らは開墾した所を畑に変え、麦やブドウを植えていった。麦はパンとなり、ブドウはワイ
ンに
なる。パンとブドウはキリストの肉と血の証とされ、教会の洗礼や行事に無くてはならないものであったし、その大半は売却されて、修道院の
活動の収入源となった。しかし一方で、こうした森林伐採は、現代人の目からすれば、史上最悪の自然破壊とも言えるであろう。この修道
士た ちの開墾が現在の西ヨーロッパの風景を作り上げたのである。
農業生産向上の二つ目の要素は農業技術の向上であった。中世温暖期までは、村の農地の半分で耕作を行い、残り半分を休ませる二圃制が
行わ
れていた。現在のように農地の全面を耕作に使う時代からは考えられないような、無駄な土地の使い方だが、ただでさえ土壌の栄養分が少ない
ヨーロッパで、肥料を使う知識もない時代、できる限り収穫を増やそうとすれば、この方法しかなかったのである。
それが、イスラーム教世界からすぐれた農業技術が流入して変わっていった。まず鉄製農具の普及である。以前は木製農具しかなく、深く
耕せ
ない、すぐに折れて作業効率が悪いなどの問題点があった。それが、2~8頭の牛や馬に引かせた重量有輪犂(すき)すなわち巨大な車付きの
鉄製の犂で耕地を耕すようになる。以前より深く、細かく土地を耕すことができるようになった。もともとヨーロッパは緯度が高く日の光
は弱 めである。雑草はほとんど生えることがない。土地を深く耕すことだけでも、農作物の成育には有効なのである。
これに加えて三圃制の伝播である。これはまず農地を三分する。ある年はそのうち一か所で、人が食べる秋麦を作り、次の年は土壌の栄養
分が
少なくなるので、牛馬が食べる燕麦などを作る。そしてすっかり栄養分がやせ細った3年目には牛馬の放牧・牧草地として一年間休ませ、その
間牛馬の排泄物が肥料として落され牛馬の足で自然に地面に鋤き込まれるため、翌年からはまた耕作が可能になるという農法だった。二圃
制で
は全耕地面積の半分しか耕作ができなかったが、三圃制では三分の二に増える。その分収穫が増えるという理屈である。実に効果的な農法なの
だ。
こうした農業生産の増大は、余った生産物を売買する余裕を農民に与えた。農民はこうした余剰生産物を近くの町に売りに出す。市場は活
気づ
き、商業が活発化する。こうした商売の流れは、最初は小さなものだったが、やがて怒涛のように西ヨーロッパ全体を巻き込んでいくのだが、
それはまた、後ほど「商業の復活」の項目で説明しよう。そしてその商業の復活に大きな貢献をしたのが十字軍だった。
■十字軍
ヨーロッパがノルマン人の侵入に苦しみ、じょじょに封建制社会に移行しつつあった頃の十一世紀、西アジアでも大きな変化が起こってい
た。
この頃になると、アッバース朝も目に見えて衰退しており、もはやカリフは宗教的な権威を持つのみであった。さらに10世紀半ばには、シー
ア派の政権ブワイフ朝がアッバース朝のカリフを保護するようになり、スンナ派の長としての権威も揺らぐようになっていた。この弱体化
した
カリフを1055年にブワイフ朝から解放し、権威を回復させたのがスンナ派のセルジューク朝であった。セルジューク朝の長トゥグリル=ベ
クはその功績から世俗君主の最高位であるスルタンの称号を承認された。
このセルジューク朝も、マンツィケルトとの戦い(1071年)でビザンツ帝国を打ち破った頃が最盛期で、その後はじょじょに分裂して
いっ
た。分裂国家の一つである小アジアのルーム=セルジューク朝が、ビザンツ帝国と激しい領土争奪戦を繰り広げていたことが、やがて西アジア
全土を2世紀余りの間まき込む大事件を引き起こすのである。
ルーム=セルジューク朝の攻勢に苦しむビザンツ皇帝は、当時聖地イェルサレム近辺で流れていたうわさを聞き、これを利用しようとし
て、西
方世界の事実上のリーダーであったローマ教皇に使いを出した。それは、「トルコ人が聖地を占領し、キリスト教徒の巡礼を妨害している」と
いうもので、東西両教会の共通の聖地を救うための「多少の」傭兵の派遣の斡旋を願うものであった。実は東西教会は1054年に一時、
相互
破門と言えるような状態にまで関係が悪化していた(教会大分裂と言う)が、その後ゆっくりと関係改善が進んでいたのである。もちろんビザ
ンツ帝国はこの噂の真実を知っており、これはあくまでも傭兵獲得の名目なのであった。本当の狙いは単に失われつつあった小アジアの領
土奪 回だけであった。
当時のローマ教皇ウルバヌス2世は、この事実を知っていたのか知らなかったのか。1095年西ヨーロッパ各地の国王・騎士たちを南仏
クレ
ルモン市に集めた。クレルモン公会議である。この時教皇が、演説の最後で神のために武器を取れ!と呼びかけると、聴きいっていた聴衆は一
斉に「神の御心のままに!」と応え、聖地をイスラーム教徒から奪還することを誓ったとされる。この時のウルバヌスの演説は、歴史に残
る名
演説とされている。そしてこの時が十字軍の誕生の瞬間であった。そしてまた、この後21世紀まで続く不幸な歴史の始まりであった。
当初、ローマ教会は、この軍隊をそう大規模なものにはならないだろうと考えていたが、いざ会議が終わってみると、反響は思いもよらな
いほ
ど大きなものになっていた。ウルバヌスの演説の影響は、クレルモンの町から、人々の口づてにあっという間にフランス全土、はてはヨーロッ
パ各地に広まっていき、会議の参加者が領地に戻って聖戦に旅立つ前に、いち早く一部の民衆や下級騎士が「民衆十字軍」として聖地に出
向く という事態も起こった。
十字軍の参加者は、十字架の模様を服につけていた。聖地に向かうときは、十字架の模様を進行方向に、つまり胸につけ、帰還するときに
は背 中につけた。参加者には、ローマ教会からは免罪が保障され、聖地にて異教徒から奪ったものの所有が認められた。
ここで、なぜ突然十字軍が突如としてイスラーム世界に襲いかかったのかという理由を説明しよう。
まずひとつめの理由は、先述した地球の温暖化である。気候温暖化は、農産物の生産増大をもたらし、余剰農産物の販売すなわち商業の活
発化
という結果をもたらした。さらに栄養状態が改善されたことから死亡率が低下する。これは支配者である騎士階級にとっては、以前のように兄
弟が成人までにほとんど死ぬということがなくなることを意味する。分割相続が一般的なこの時代、これは親から相続できる領地が、どん
どん
目減りするという結果につながった。特にこうした境遇は、領地が比較的小さな領主ほど切実であった。そして領主階級で最も多いのがこうし
た小領主なのである。こうして十世紀頃から小規模な戦闘が全ヨーロッパ的に増加していった。
この事態はローマカトリック教会にとってゆゆしき問題だった。というのも、当時、各国の王は名のみの存在であり、教会こそが唯一ヨー
ロッ
パ全体に責任を持つ存在であると考えられていた。教会はその名誉にかけて、各地で「神の平和」と呼ばれる戦闘停止を呼びかけ、一定の成果
を得ていたが、これを貫徹させるためには、なんとしても、こうした人口問題や領地不足、そして貯まった戦闘エネルギーをどこかで解消
する 必要があった。こうした状況の中、ビザンツ皇帝からの救援要請が来たのである。
二つめの理由は聖遺物収集熱というものである。これは聖地巡礼と深く関係している。キリスト教徒にとって、一生に一度、自分たちが崇
拝す
る聖者の活躍した聖地を訪れることは、イスラーム教徒のように明確に義務化されてはいないものの、重要なものとなっていた。それが、西
ヨーロッパ全体が豊かになってきたことによって、可能になってきたのである。
そう豊かでない人は近くの聖地、豊かな人は遠くの聖地へと、ノルマン人やマジャール人の侵入による混乱も収まり、大森林も伐採され始
め て、旅が比較的安全になったこの時代、聖地巡礼はしだいに活発化していった。
詣られる方の聖地の側にしても、参詣にともなう一種の観光収入は魅力的であり、聖地にある教会や修道院は争って聖者のゆかりの品「聖
遺
物」の収集と展示に努めていた。多くの聖遺物は聖○○の骨の一部や身の回りの品といったものだった。しかし、数百もある教会や修道院が、
どれも聖遺物を持てるはずもない。貧しい教会の神父などは巡礼者でにぎわう近くの裕福な修道院を、つぎはぎだらけの薄汚れた衣を身に
まと いながら眺めているしかなかったのである。
こういうときに不思議と起こるのが、聖遺物の「移動」である。たとえば奇跡を何度も起こすという聖△△の遺骨が、ある日忽然と消え
る。そ
れが何十キロも離れた貧しい修道院に現れる。そこの修道士の一人は前日に夢を見ていた。聖△△が泣いており、何故かと問うと、今いる教会
は自分を客寄せのモノ扱いしており、信仰心が薄いので悲しいというのである。そこで、信仰心の厚いこの修道院にやってきたというわけ
であ る。
疑い深い現代人なら、「あ、やったな」と考えるだろうが、多くの一般信者が素朴であって、こうしたできの悪い話でも信じたこの時代、
この
ようなことがあったとしても、それはそれで巡礼者を集められたのである。もっとも、「聖◇◇の遺骨」と称するモノをすべて集めたら、三人
分にもなったという話もあり、遺物の中にはそうとう怪しいモノも含まれていたようだ。また、こうした「信仰心篤い貧しい修道士」は修
道院
から多くの褒美をもらったし、不思議と後で高い地位に昇ることが多かった。このような状況であったから、聖地の中の聖地イェルサレムに行
く、と言うことは、何らかの聖遺物を手に入れることが期待できたのである。
教皇が「今や、東方のトルコ人がローマ領に侵入し、キリスト教徒の土地を奪い、人々を殺し、教会を焼き、神の王国を滅ぼそうとしてい
る。
あなたがたが全ての人々に十字架を取って立ち上がるよう勧めることを望む」と呼びかければ、多くの騎士たちは、まず宗教的な義務感から、
参加を考えたであろう。当時「免罪」は大きな魅力であった。そして次には、教皇が約束した聖地での領地獲得を考えただろう。領地が獲
得で
きれば、親族や近隣の領主と争わないで済むのである。さらには、領土獲得がならなかったとしても、聖遺物がもたらすかも知れない金貨や銀
貨の魅力には抗しがたかったであろう。十字軍とはこのような動機が絡み合った中で行われたのであった。
1096年第一回十字軍は南仏を出発し、この年のうちに聖地に着いた。途中ビザンツ帝国に立ち寄ったが、ビザンツの皇帝は十字軍の内
実を
知ると、こんな集団とかかわってはとんでもないことになると分かって、てきとうに話を合わせて追い払った。聖地でも、まさかそんな狂信的
な集団がくるとは、夢にも思わない。現地では、時たま訪れる巡礼者集団の一種として出迎えたが、やって来たのは惨劇であった。
十字軍士は聖地にはいると、あたり構わず異教徒を殺戮していった。当時の記録に「ひざまで血の海に浸かった」と表現されるような悲惨
な光
景がイェルサレム市内のあちこちで見られた。頭から血で真っ赤に染まった十字軍士たちは、異教徒(中にはカトリックとは異なる宗派のキリ
スト教徒もいたが)を殺しつくすと、その場で神に、使命をなし遂げられたことに対して感謝を捧げたという。
十字軍は結局聖地とその周辺の秩序を破壊しつくす。我に返ったものは、あるものは聖遺物、あるものは貴金属を持ち帰っていった。聖遺
物の
中の聖遺物である聖十字架(キリストの磔刑に使われた十字架)も、東方キリスト教会の司祭を拷問して手に入れた。そのまま聖地に残った騎
士たちが作ったのがイェルサレム王国である。周囲には同胞が作ったいくつかの「十字軍国家」が作られた。領土獲得の望みも叶えられた
ので あった。
襲われた方のイスラーム側のショックは大きかった。さらに、すぐに聖地を取り返さねばならないはずの各地の支配者たちも情けない有り
様
だった。セルジューク朝は分裂しており、聖地奪還どころか、これまでの対立から来る疑心暗鬼のほうが強く、なかなか共同戦線に移れそうに
もなかった。それどころか、自分たちの内部争いを優先して十字軍と同盟を結んだりする者も出てくる始末だった。十字軍のほうでも参加
者が ほとんど帰国して、一時は数百名しか聖地にいない状態だったが、こうした状況が十字軍国家の存続を許していた。
イスラーム教徒側の反撃には結局半世紀の時を待たねばならなかった。そして十字軍を撃退するのにはさらに半世紀が必要だった。この
間、第
一回の成功で、ヨーロッパにおいて戦闘エネルギーのはけ口を求めていた者が聖地に向かうシステムができあがった。これが十字軍国家を生き
ながらえさせ、ヨーロッパ~聖地間の交流の確立につながっていった。
初めてイスラーム側で本格的な十字軍撃退をしたのが、サラーフ=アッディーン=アイユーブ(サラーフッディーンとも発音する。これが
な
まったのがヨーロッパ側の呼び名サラディン)であった。彼は小アジア地方の山岳民族クルド人の貴族であった。彼は、セルジューク朝の分裂
期に徐々に頭角を現し、衰退していたエジプトのファーティマ朝から宰相に招かれ、実権を握るとファーティマ朝を滅ぼしてアイユーブ朝
を建 国した。そしてとうとう聖地イェルサレムをほぼ一世紀ぶりに奪還したのである。
ヨーロッパ側にとっては、イェルサレム喪失は大きな衝撃であった。そこで編成されたのが第3回十字軍である。この十字軍の目玉はイギ
リス
王リチャード1世獅子心王とフランス王フィリップ2世尊厳王、そして神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世赤ひげ王というヨーロッパを代表する
王侯騎士たちが参加したことであった。当時英仏両王は領土をめぐって対立する関係でもあった(後述する「英仏抗争」を参照のこと)
が、十
字軍参加の呼びかけで休戦に合意し、あいついで聖地に向かった。しかし結局両者の対立はそこで再燃し、聖地奪還は不成功に終わる。さら
に、この時の戦いの際にサラディンは、十字軍が降伏した際に身代金との交換という条件ながら、全員の命を保障した。十字軍が聖地イェ
ルサ
レムで行った行為と比較して、何という寛大な処置か。聖地ではイスラーム教徒はもちろん、キリスト教徒もこのサラディンの行為を褒め称え
たという。
第3回十字軍の失敗は西欧側にとって大きな失態となった。すぐに第4回十字軍の構想が練られ始めた。ローマ教皇インノケンティウス3
世、
カトリック教会絶頂期の教皇が召集したのである。この十字軍も大規模になった。従来十字軍士の輸送から資産管理まで幅広く扱っていたイタ
リア商人でも、ジェノヴァ共和国に代わって、ヴェネツィア共和国が元首自ら参加するほどであった。ところが、これほど入念に計画され
たの
に、実際に集合してみると参加者は予定の三分の一しかいなかった。参加者も貧しい者が多く、寄付を含めても聖地までの渡航費用には全く足
りなかった。そこで、十字軍はヴェネツィアの提案に従い、かつてのヴェネツィア領で、当時キリスト教国ハンガリー王国領であった町の
攻略
を手伝った。これは、いわば本職に精を出す前のアルバイト的な軍事行動であったが、教皇の怒りを買って一時十字軍全体が破門されてしま
う。その後教皇は状況を理解して破門は解除されたが、その後も迷走するこの十字軍は、ビザンツ帝国を征服して再び破門されるという失
態を
くり返してしまう。結局この第4回十字軍は聖地へは向かわず、そのままこの旧ビザンツ領に居座り、ラテン帝国などの国家を建設した。十字
軍の目的が領土獲得や聖遺物などの獲得にあるという、その本質がみごとに表われた事件であった。
結局十字軍は、第1回を除いては、まともには一度も聖地を奪還できなかった。「まともには」というのは、奪還自体はあったのである。
シチ
リア育ちの異色の皇帝フリードリヒ2世が聖地遠征を行い、当時内紛に悩まされていたアイユーブ朝のスルタンを助ける報酬として、一戦も交
えることなくイェルサレムを「奪還」したのである。しかし戦い無しで聖地を奪還したとして、彼と仲が悪かった教皇はこれを認めず、そ
れど
ころかフリードリヒ2世に対する十字軍を呼びかけるという始末だった。さすがにこれは失敗し、結局はフリードリヒ2世の破門を解く羽目に
なる。
その後十字軍はフランス王ルイ9世が13世紀後半に二度にわたって実施するが、一度も聖地に到ることもなく失敗している。最後の十字
軍の
目的地にいたっては、聖地から遠く離れた、縁もゆかりもないアフリカのチュニスであった。そしてそんな場所さえ奪取できなかったのであ
る。それが当時のヨーロッパ諸国の実力であった。しかし、そうした弱さが露呈する中にも、着実にヨーロッパ世界の中で変化が始まって
いた のである。
◇封建制の崩壊
■商業の復活
気がつけば地中海はかつてのような「イスラームの海」ではなくなっていた。十一世紀に地中海を大きな帆を上げて帆走していたのはイス
ラー
ム(エジプト)商人のダウ船ではなく、イタリア商人の駆るガレー船であった。東南アジアに発する香辛料貿易の西方での価格を決めていたの
もイタリア商人だった。十字軍国家が健在であった頃、こうした国家を支えていたのも彼らだった。そしてこうした事業の展開を通じて、
進ん だイスラーム文明の文物がヨーロッパにもたらされ、富も少しずつヨーロッパ側に流出していったのである。
当初はヨーロッパ勢力の略奪という面が強かったイスラームとの貿易も、やがて正常化して活発化していき、ドイツ産の銀や銅(生産を独
占し
たのがアウグスブルクを本拠地としたフッガー家)が決済の手段として使われ、イタリアやフランドル地方産の綿織物や毛織物が輸出されるよ
うになっていった。
ノルマン人の活動が盛んであった時期から北海~バルト海地域の貿易はそれなりに盛んであったが、これが北イタリア~イスラーム地域と
の交
易と結びついた。その結果、まずヨーロッパ側の中心である北イタリア諸都市が栄え初め、つづいて木材や宝石、毛皮などの北方の産物の集積
地である北海沿岸のフランドル地方が栄え始めた。
こうした連鎖反応は各地に波及し、次にはこれら地域間の中継地が繁栄の恩恵を得て栄え始めた。北方ではバルト海沿岸からイングランド
の北
海沿岸まで、さらにフランドル地方を経てヨーロッパ中央部のアウグスブルク市や中部フランスのシャンパーニュ地方が中継地・物資集積地と
して栄え始めた。
一方で10世紀から続く森林の伐採と開墾の波はこの時代ピークに達し、ヨーロッパは12世紀に、経済的にも物理的にも中世の暗黒時代
から
完全に抜け出した。それはヨーロッパ人の生活レベルの向上をもたらし、じょじょに人口の増大、寿命の延長、幼児死亡率の低下といった現象
がおこっていった。
■カトリック教会の権力の興隆から失墜まで
しかし、こうした生活面や文化面の向上といった変化は、すべての人にとって喜ばしいものではなかった。特に支配者であるカトリック教
会や 領主騎士層にとっては望ましくない変化をもたらしていた。
カトリック教会はこうした変化がもたらされるまでは、西ヨーロッパ世界において絶大な権力を持っていた。その原動力が教会改革に対す
る、 騎士層から大衆に到る広汎な支持であった。その改革運動の中心がクリュニー修道院であった。
クリュニー修道院は中部フランスの修道院であったが、ここで10世紀から始まった修道院改革の影響を受けて、十一世紀に教皇グレゴリ
ウス
7世が教会改革を始めたことや、院長出身者がそれを推し進めたことから一躍有名になった。グレゴリウス7世はローマ帝国とカトリック教会
が協力して帝国の治安を守るために作り上げた体制を整理し、聖界と俗界の区分を明確にしようとした。そのために避けて通れなかったの
が俗
界の長である王や皇帝による聖職叙任権であった。本来聖職者の任命権は、教会の権限であるが、ローマ帝国時代以来、俗界の長にも認められ
ていた。これはかつて、教会組織が生き残るために必要に迫られて認めていた制度であった。しかし当時、もはやその必要性が無くなって
も
残っており、大修道院や、カトリック教会の要職である枢機卿でさえ、権力者の個人的な意向で左右されることがあったのである。教皇でさ
え、何の修業もすることなく、俗界の人間がなれていたのである(ルネサンス時代、枢機卿たちが買収されて、大富豪メディチ家のレオ
10世 が即位したのは有名)。
グレゴリウス7世は皇帝ハインリヒ4世と対立し、皇帝を破門。結局ハインリヒ4世はグレゴリウスに謝罪した(カノッサの屈辱。
1077
年)。そして1122年に時の皇帝と教皇の間で聖職叙任権はすべて教皇の権限に属するという協定(ヴォルムス協約)が結ばれたのである。
教皇権力の勝利であった。教皇権力の興隆は、ウルバヌス2世の起こした十字軍という大運動、さらにはその結果として、西欧諸国で長年
続い
ていた騎士間の私闘の激減という結果をもたらした(このあたりは十字軍の原因の項を参照のこと)。教会はヨーロッパの平和とキリスト教の
名誉の立役者であった。
インノケンティウス3世の時代(ほぼ1200年頃)は、カトリック教会の絶頂期となった。彼は「教皇は太陽、皇帝は月」と言い放った
し、
フランス王とイギリス王ジョンの対立に際してイギリス王を臣従させるなど、教皇権力のさらなる向上を実現した。さらに十字軍の成功を目指
して第4回十字軍を召集したが、これが同胞のキリスト教国ビザンツ帝国を滅ぼすという大失敗を引き起こしたのが唯一の失点であった。
ただ
し、このことによって、分裂していたカトリック教会と東方キリスト教会の対立がカトリック教会の勝利で終わる結果に終わったことは教会的
には成功であった。
13世紀になると、徐々にカトリック教会の権力は衰えていく。商業の復活は、カトリック教会を否応なしに貨幣経済に巻き込んでいっ
た。教
会組織は、中世のような現物や土地所有権といった収入源から、貨幣収入の比率を増やしていったのである。教会は以前にも増して豊かにな
り、黄金の魅力に負ける司祭の堕落も増えていった。この点、十字軍の開始とグレゴリウス7世の教会改革の開始の時期がほぼ同時(いず
れも 十一世紀末)なのは偶然ではない。
十字軍の失敗は、主要な参加者である騎士たちの破産をもたらし、十字軍を実行するために徴税や軍務の執行者となった国王の権威を高め
て
いった。カトリック教会のこの大失態は、教皇の権威を低下させる結果となった。さらに貨幣経済の広がりは、貨幣の入手手段を持たない領主
騎士階級の没落を進行させた。13世紀末には、騎士たちの多くが国王からのいくらかの恩賜金なしには騎士としての生活が立ちゆかない
ほど になっていたのである。つまり封建領主のサラリーマン化である。
残念ながら13世紀末のカトリック教会はそれを十分理解してはいなかった。当時のフランス王フィリップ4世美王が財政問題を解決する
ため
教会に課税するなどしたため、教皇の至上権を守るため教皇ボニファティウス8世はフィリップを罰しようとした。しかしフィリップ4世はこ
れに先手を打って、三部会とよばれる議会(フランス国会の起源)を創設し、フランスの騎士諸侯や市民の支持を得た。そして逆にフィ
リップ
4世は教皇を非難し、教皇はフィリップ4世の破門で応えた。両者の対立が抜き差しならない状況に陥る中、フィリップ4世と手を結んでいた
反ボニファティウス派が教皇を捕えようとし、イタリアの山村アナーニに教皇を追いつめた。何とか逃れることができたが、この時教皇は
肉体 的に大きなダメージを受けたらしく、間もなく亡くなってしまう。
このアナーニ事件は教皇権力の失墜を世間に印象づけた。その後フィリップ4世は、息のかかった人物を教皇に送り込む事に成功し、教皇
のも
つ力をフランス王家の道具としていった。ついには教皇庁のフランス移転(教皇のバビロン捕囚またはアヴィニョン捕囚という)をも実現し
た。これを阻止できる力を持っていたドイツ皇帝や、イタリアの諸勢力はこの時期分裂・内部対立でフランス王家に対抗できなかったた
め、フ
ランス王家の力が強まり、逆に教皇権力は弱まっていった。14世紀の教会分裂(シスマと呼ぶ)やウィクリフやフスの教会批判はさらにこの
傾向を強めることになる。このあたりについては、次の章が詳しいので、そちらも参考にしてほしい。
◇東方のローマ帝国と東ヨーロッパ世界
■東ローマ帝国の繁栄
さてここで、しばしば話の中に出てきながら、まとまって語っていなかった東ローマ帝国についてまとめて述べてみたい。話はフランク王
国時 代にさかのぼる。
ヨーロッパの西方では西ローマ帝国の滅亡にともなう混乱が支配していた時代。東方では、ゲルマン民族の移動にともなう混乱がほとんど
無視
できる程度であったこと。東ローマ帝国の領域では、まだ経済が活発で、国力も東方や北方の異民族を撃退できるほど強力であったことから、
西方とは比べものにならないほど治安は良好で、国家として安定していた。帝国を東西に分けたテオドシウス1世以降、歴代皇帝もコンス
タン
ティノープルに宮殿を置き、城壁は難攻不落と言われるほど整備され、人口も増加した。5~6世紀にはコンスタンティノープルは「第二の
ローマ」と呼ばれるほどの繁栄を謳歌するようになった。ちなみに、第一のローマはこの時期西ゴート族の略奪・破壊以来の荒廃の影響か
らな かなか脱することができず、イタリア中部の地方都市にすぎない状態だった。
こうした国力の充実を背景に、分裂したローマ帝国を再び統一しようとする野心家が現れるのは当然のことであった。それが6世紀初めに
現わ
れたユスティニアヌス1世である。本名フラヴィウス=サバティウス。貧しい農民の子として生まれ、軍人であった叔父の養子となり、ユス
ティニアヌスと改名する。その叔父が皇帝となったことが彼の運命を変える。生来の聡明さから、叔父の信任も厚く、軍司令官、執政官、
そし て副帝と、トントン拍子に出世し、44歳の時叔父の死で皇帝に即位する。
着実に力をつけ、最も脂ののった時期に最高権力者となる。これで何かを為そうとしない人間はいないだろう。まず彼は、古代以来のロー
マ法
の整理・完成に着手する。当時最高の学者と称されていたトリボニアヌスを首班とするプロジェクトが始まった。これは6年後に完成し、
『ローマ法大全』と名付けられた。さらにキリスト教徒の長としての義務感からか、異教の伝統を首都近辺から一掃しようとして、プラト
ン以
来の伝統を誇るアテネの学院アカデメイアを閉鎖させ、教授らを追放した。そしてさらに、皇帝としての最高の成果、すなわちローマ帝国の再
興が計画されていた。しかし、こうした事業は多額の予算を必要とすることから、増税に頼ることなしに実施することは不可能であった。
新規の増税、しかも市民に直接利益をもたらしそうにないこの計画に、市民は反発した。東ローマ帝国では、首都はギリシアに移ったが、
共和
制時代からの伝統はまだ根強く残っており、初期の帝政よりは帝権が強化されたとはいえ、市民の意志は一定の影響力を持ち、市民に対する
「パンとサーカス」の無償提供も健在であった。そのサービスの一つとしての戦車競技の場は、皇帝も臨席することから、市民が集団で皇
帝に 意見を訴える重要な機会であった。
即位5年目の年の競技会で事件は起こった。積もりに積もった増税への不満は、皇帝への訴えを暴動に変えた。数万人の群衆が暴徒と化
し、ユ
スティニアヌスは宮殿に避難した。反皇帝派の貴族はこれを機会に権力を奪おうとし、対立皇帝を立てようとした。ユスティニアヌスは一時は
退位も考えたが、周囲の説得で気を取り直すと、将軍ベリサリウスなどに命じて暴徒を徹底弾圧し、反皇帝派を追放し、対立皇帝を処刑し
た。 この間約一週間、コンスタンティノープルは入り混じる両者の抗争で破壊され、聖ソフィア大聖堂も破壊された。
雨降って地固まる。治安は回復された。首都の再建が始まった。大聖堂も短期間で再建され、バジリカ様式だったものが新工法が取り入れ
られ
た。この新工法はドームを特徴とするもので、これまで例のない建築様式であった。この聖ソフィア大聖堂をまねた建築がビザンツ様式であ
る。
ササン朝との戦争は、国家再建までの時間稼ぎから中止され、平和条約が結ばれた。そしてベリサリウス将軍率いる軍が、西に向けて派遣
され
た。向かうは、イタリアとアフリカ。敵は東ゴート王国とヴァンダル王国である。当時幸いにも、両国とも内紛から国内は乱れていた。ヴァン
ダル王国はこの年のうちに征服された。てこずったのが東ゴート王国で、ベリサリウスは結局完全征服には失敗し、後任のナルセスが滅ぼ
すこ
とになる。ナルセスはその後、イベリア半島南部をも西ゴート王国から奪う。こうしてローマ帝国の復活は成った。しかし完全な復興ではな
かった。それを許さなかったのがペルシア帝国との戦争再開であった。
■落日の東ローマ帝国
東ローマ帝国とペルシア帝国の百年戦争、およびイスラーム帝国の成立の経緯については「イスラーム世界」の章に詳しいので、そちらを
参照
して欲しい。結局ユスティニアヌスの努力は東ローマ帝国にとって何の利益にもならなかった。7世紀後半にはヘラクレイオス1世の奮闘もむ
なしく、かつて帝国の穀倉地であった地中海東岸やエジプトは、新興イスラーム勢力の物となっていた。
670年代には毎年のようにイスラーム勢が首都に攻め寄せるなど、危険な状態が続く。軍事費が財政を圧迫したため、ヘラクレイオスは
パン
の支給を廃止し、公用語もギリシア語に変えるなど、東ローマ帝国のローマ帝国的な要素をどんどん切り捨てていった(この頃から東ローマは
ビザンツ帝国と呼ばれる)。人口の多い地中海東岸やエジプトから兵士を得られなくなったため、新たな軍制・国制の柱としてテマ制(軍
管区 制)が実施された。首都の人口も激減し、この頃帝国は東西分裂以来最大の危機を迎えていた。
ところが九世紀から十世紀になると、状況は好転する。最大の敵イスラーム勢力はアッバース朝が衰退していた。さらに中世温暖化による
ヨー
ロッパ商業の復活は、西欧をノルマン人が襲う活動も生んだが、東地中海地域では恩恵の方が大きかった。コンスタンティノープルは再び商工
業の中心都市として、繁栄を謳歌するようになり、ユスティニアヌス時代に匹敵する大都市となっていった。
そうした繁栄に影を投げかけたのが、西方世界との対立であった。ローマ帝国の東西分裂以来、キリスト教世界の中心都市の地位は、歴史
こそ
イェルサレムに譲っていたが、都市の規模や教会の豊かさにおいてコンスタンティノープルに勝る都市はなかった。ローマ教会は聖パウロの終
焉の地であり、大帝国の発祥の地と誇ってはいたが、うち続く戦乱や掠奪で見る影もないほど衰えていた。コンスタンティノープル教会
は、キ リスト教世界第一の教会であった。
そうした状況がフランク王国の登場で変わる。カロリング家と結びついたローマ教会は、800年には自らの手でカールに西ローマ帝国を
復興
させ、その後ろ盾を得て、しばしばコンスタンティノープルに圧力をかけてきた。本来同じ教義を持つ両教会が対立する必要はないが、そう
なった原因は、文化的な相異である。つまり、コンスタンティノープル教会のある東方世界はギリシア的要素が強く、次第にスラブ的要素
も加
わっていった。一方、ローマ教会のある西方世界はラテン的(つまり本来のローマ的)要素が強い世界であり、次第にゲルマン的な要素が加わ
る世界である。民衆への布教に関しても、東方世界ではイコン(聖画像)が主に使われたのに対して、西方世界では十字架が使われた。こ
れは
それぞれの世界の好みである。聖像禁止令は、イコンに対する崇拝を偶像崇拝として禁止しようとしたもので、以後帝国を三代にわたって二分
する大論争となったが、この時も東方では論争になったものの、西方では全く問題にならなかった。この件などは両者の違いを典型的に表
すも のだろう。
ビザンツ帝国の繁栄はほぼ十一世紀の半ばまで続く。この間に顕著な変化を見せるのがバルカン半島地域である。この地域は一時、気候の
厳し
さもあって人口が激減した時期があったが、これに対して帝国は、北方のスラブ人の定住化とキリスト教化に成功し、現代の東ヨーロッパ=ギ
リシア正教会世界の源が成立する。
しかしこの時期のビザンツ帝国の繁栄を支えたテマ制は解体していき、九世紀末に崩壊する。代わって十一世紀末の十字軍の頃にはプロノ
イア
制と呼ばれる土地・税制が実施されるが、これも帝国の衰退を防ぐことはできなかった。帝国は大貴族の連合国家となっていき、皇帝権力は弱
体化していった。また歴代皇帝はしばしばかつての偉大な帝国のイメージを再現するために、強力な近隣のセルジューク朝やその分裂国家
と戦
闘を繰り返した。しかしその軍事費はけっきょく税負担となって市民生活にのしかかり衰退を早めるという、悪循環をくり返すだけだった。末
期のビザンツ帝国には、南宋の秦檜のような、「売国奴」という汚名を負ってまで冷静に国力を計算し、平和を求めた人物は出なかったの
であ る。
■東ローマ帝国の滅亡
1204年、第4回十字軍によってビザンツ帝国は一時滅亡するが、60年後にその亡命貴族が作ったニケーア帝国によって再興がなされ
た。
しかし、この間にビザンツ帝国はすっかり領域国家としての力を失っていった。14世紀後半には、領土もほぼコンスタンティノープル市とそ
の周辺だけの、事実上の都市国家と化していった。本来ならこの辺りで滅亡してもおかしくはなかった。
その頃東方ではセルジューク朝を引き継ぐ新たなる大帝国が生まれていた。オスマン朝である。13世紀末に独立し、14世紀末には軍事
にす
ぐれたスルタン「稲妻王」バヤズィト1世が即位していた。ビザンツ帝国は1402年にはバヤジットという大嵐に席巻され、その運命は風前
の灯火であった。しかしビザンツはまだつきが残っていた。彼らを救ったのは、中央アジアからやってきた大暴風であった。大モンゴル帝
国の 再興を目指す征服者ティムールの襲来である。
一方は14世紀末にニコポリスの戦いでヨーロッパ勢の対トルコ十字軍を破り、バルカン半島と小アジアを支配するオスマン朝の軍十二
万、そ
してもう一方は中央アジアの征服者の軍二十万。1402年両雄は小アジア中央部で激突する。アンカラの戦いである。この歴史的な戦いは、
激戦であったが決着はこの日の内についた。バヤズィトは捕虜となり、オスマン朝は崩壊した。小アジアの諸勢力は独立し、オスマン朝も
内紛
で分裂する。ところがなぜかティムールはそのまま西進せずに東方に引き返した。そして3年後にその訃報が伝えられた。暴風は大きな被害も
無く去ったのである。こうした経緯は、ビザンツの人々にとって、神が救ってくれたとしか思えないような状況であった。
しかしオスマン帝国はしぶとかった。バヤズィトの後継者はすぐに帝国の分裂を回復し、ティムールの後継者もそれを黙認した。ティムー
ル帝
国の内紛という国内事情が帝国西方の安定を必要とし、ビザンツ帝国にとっては悪い方向に働いたのである。あっという間にオスマン朝はかつ
ての勢力を回復した。そして東方への進出ができないため、改めて西方への領土拡大を目指すことになっていく。ビザンツ帝国は結局運命
から 逃れることはできなかったのである。
1453年。すでにコンスタンティノープル周辺は、すっかりオスマン帝国の領土であった。皇帝メフメト2世は、この地中海世界を代表
する
大都市の征服を計画し、この年までに完璧な包囲網を築いていた。建設以来一〇〇〇年の間この大都市を守ってきたテオドシウス帝の大城壁は
まだ信頼できたが、すでにこの時代オスマン帝国側は攻城砲(巨大な大砲)を所有していたため、どれだけ持ちこたえられるかは分からな
かっ
た。最後の皇帝となるコンスタンティノス十一世(偶然だが東の帝国の建国者と同名)は西欧諸国に援軍を求めたが、今度は十字軍などは来な
かった。結局援助してくれたのは永年つき合いのあったヴェネツィアとジェノヴァの2都市の傭兵軍二千人だけだった。
10万のトルコ軍の猛攻撃の前には、さしもの千年の都も陥落をまぬがれ得なかった。ローマ帝国は、紀元前753年に都市国家として生
まれ たが、その歴史を閉じた時も都市国家として終えたのである。
■オスマン朝支配下の東ヨーロッパ
このころまでに東欧のかなりの地域がオスマン朝に征服されていた。先にも述べたハンガリー王の対トルコ十字軍は、東欧のヨーロッパ勢
の最
後の抵抗と言っても良かった。ビザンツ帝国の征服で、オスマン朝の西進を押しとどめる勢力はいなくなった。そしてコンスタンティノープル
市(以後イスタンブルと呼ばれることが多くなる)を得たことで、オスマン朝の力は格段に強化された。歴代スルタンは経済や貿易を保護
し、
ユダヤ系やイスラーム系の商人の経済運営はスルタン政府による管理が機能し、うまくいっていた。オスマン朝が東西貿易を妨害したという説
が昔あったが、これは全く根拠が無かったことが分かっている。
オスマン朝の西進はまだまだ続き、短命のセリム1世の時にエジプトが征服され、イランの大帝国サファヴィー朝も首都を含む領土の西半
分が
奪われた。そしてその次のスレイマン1世の時がオスマン朝の最盛期であった。陸上ではフランス王の求めに応じて1529年バルカン半島を
越えて神聖ローマ帝国の都ウィーンを包囲する(第一次ウィーン包囲)。ウィーンを征服すれば、ヨーロッパ支配も視野に入っただろう
が、こ
れには失敗した。しかし海上では、1538年ギリシア近海でおこなわれたプレヴェザの海戦で、ヴェネツィア海軍主体(他にスペイン軍・教
皇軍が参加)の連合軍を打ち破って、地中海の制海権を握った。この海戦では、オスマン海軍は数においても兵力においても完全に劣って
いた
(全体の規模は三分の一。大砲の数などは十五分の一)が、ヨーロッパ側が正規軍と傭兵が主体なのに対して、オスマン側は、海賊上がりがほ
とんどを占めていた。そのため、機動力では勝っており、最後は司令官が船と将兵をどれだけ早く動かせたかという点でオスマン側が勝っ
てい た。
ビザンツ帝国を最後まで支援し、「地中海の女王」と呼ばれた経済大国ヴェネツィアも、ここに至ってはオスマン朝との友好関係を取り結
ばね ばならなかった。ヴェネツィアとオスマン帝国の間で講和が成立し、地中海の女王はスルタンの属国となる。
オスマン帝国にとってのこる征服地はヨーロッパである。再びスレイマン大帝が東欧に軍を進めた。一時勢力を盛り返したハンガリーは再
び制
圧されたが、バルカン半島の山岳地帯を完全に制圧するのは困難だった。遠征の最中にスレイマンの寿命は尽きる。オスマン軍は引き返し、再
び西ヨーロッパ諸国は救われた。
スレイマンは後継者に恵まれず、その後オスマン朝がヨーロッパを危機に陥れることはなかった。16世紀後半に、東方ではオスマン帝国
に領 土を奪われたサファヴィー朝が領土を回復し、17世紀になると西方でもヨーロッパ側が勢力を盛り返し始めた。
17世紀半ばには三十年戦争でドイツとその周辺は荒廃したが、この時期を狙ってオスマン帝国が再び侵攻を開始した。第二次ウィーン包
囲で
ある。しかし結果はオスマン帝国のみじめな敗走であった。オスマン帝国は東ヨーロッパ特にハンガリーとその周辺の支配を放棄せざるを得な
くなり、1699年カルロヴィッツ条約を結ぶ。この後少しずつオスマン帝国はバルカン半島から退いていくことになる。そしてこの半島
上の
大勢力の不在の穴を狙って、ヨーロッパ勢、特にオーストリアとロシアがこの地域への進出を始めるのであった。こうした流れの終着点が19
世紀末~20世紀のバルカン問題であり、第一次世界大戦となっていくのである。
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